Backstoryguidio
ドビュッシー「海」:海を再現しようとしなかった音楽

ドビュッシー「海」:海を再現しようとしなかった音楽

この記事を聞く

0:00 / 0:00
5 pieces mentioned in this article

ドビュッシーの CD111(1903-05)は、海の音楽ではない。少なくとも、海を音で再現しようとした音楽ではない。


記憶から書く

1903年夏、ドビュッシーはブルゴーニュの農村地帯での作曲を始めた。海から遠く離れた内陸だった。出版社デュランへの手紙にこんな一節がある。

無数の記憶から書こうとしているものです(d'innombrables souvenirs)。

— ドビュッシー、デュラン宛書簡、1903年

実際の海の音を聴きながら書くのではなく、記憶の中の海から書く。この選択は偶然ではなかった。友人のアンドレ・メサジェへの手紙に、ドビュッシーはこう書いている。

でも私には無数の記憶がある。それは現実よりずっと価値があると思う——現実の魅力は、一般に精神に重くのしかかりすぎるから。

— ドビュッシー、メサジェ宛書簡、1903年9月12日

目の前の海を写生するのではなく、海についての内的な体験を音で喚起する。この発想が、という作品全体の方法論と重なっている。

最初のタイトルは「イル・サンギネールの美しい海」だった。最終的に単純に「海」へと改められた。


「木製のナイチンゲール」

ドビュッシーはベートーヴェンの*交響曲第6番「田園」*についてこう言った。

日の出を見ることは、田園交響曲を聴くより有益である。

— ムッシュー・クロッシュ(ドビュッシーが1901年から雑誌に書いた音楽批評のペルソナ名)

同じ批評の中でさらに具体的な言葉がある。

小川の場面を見よ! 牛が水を飲みに来るらしい小川だ。木製のナイチンゲールとスイス製のカッコウは言うまでもない。

— ムッシュー・クロッシュ

ドビュッシーが問題にしていたのは、鳥の声を楽器に模倣させ、雷鳴をティンパニで再現するという手法だった。音楽が自然音の代替物になっている——それへの疑問だった。

ドビュッシーが求めたのは、海の音を再現することではない。海のそばにいる人間が感じる内的な体験——光の変化、水の動き、時間の移ろい——を音で喚起することだった。写実ではなく、印象の捕捉。

の3つの楽章のタイトルは、情景の説明ではなく時間帯と現象の名指しだ——「海の夜明けから正午まで」「波の戯れ」「風と海の対話」。静止した場面ではなく、時間とともに移ろうものをとらえようとしている。何を感じるべきかは、一切書かれていない。

ドビュッシーはこの作品を「3つの交響的素描」と呼んだ。交響曲でも交響詩でもない。「素描」という言葉は絵画の用語で、完成した描写ではなく印象の捕捉を意味する。


語るのではなく、漂わせること

ドビュッシーは若い頃ワーグナーに深く心酔していた。1888年と89年にはバイロイト音楽祭まで足を運んでいる。しかし後年、ワーグナーのライトモティーフという手法——登場人物、概念、感情に音楽的な記号を貼り付け、その記号を緻密に積み上げて物語を語らせる手法——に限界を感じるようになる。音楽が「意味を語る」装置として機能することへの疑問だった。

1903年——の作曲を始めたまさにその年——にドビュッシーは書いた。

ワーグナーは夜明けと間違えられた、美しい夕日だった。

— ドビュッシー、1903年

だからこそ、クロッシュがパルジファルを高く評価したのは一貫している。

パルジファルでワーグナーは、音楽に対してあまり過酷な独裁者であることをやめようとした。音楽はそこで、より広く呼吸している。

— ムッシュー・クロッシュ

そこには唯一無二の、予期せぬ、高貴で力強い管弦楽の響きがある。音楽の不滅の栄光のために作られた、最も美しい音の記念碑のひとつだ。

— ムッシュー・クロッシュ

記号の縛りから最も自由だった作品に、ドビュッシーは最大の賛辞を贈った。それはワーグナーへの賛辞であると同時に、自分が目指すものの輪郭でもあった。

ドビュッシーが求めたのは、音楽がイメージを「説明する」のではなく「示唆する」こと、語るのではなく漂わせることだった。にはライトモティーフはない。海を象徴する記号もない。あるのは、音のテクスチャ、色彩、動きの感覚だ。

1905年に出版された初版スコアの表紙に、ドビュッシーは葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」を選んだ。ドビュッシーが自分のアトリエの壁に飾り続けたこの版画に、彼は音楽でやろうとしていることと同じ何かを見ていた。北斎の原画には手前の荒れ狂う波と遠くの富士山——動と静の対比——が収められているが、スコアの表紙に使われたのは富士山を切り取ったトリミング版だった。地理的な風景としてではなく、波の力と動きそのものとして見せたかったのだろう。


同じ問題意識、違う答え

ドビュッシーと同時代に、サン=サーンスもドイツ音楽からフランス音楽を取り戻すことを唱えていた。ドビュッシーが生まれる前年の1870年に普仏戦争が終わり、その翌年、サン=サーンスは国民音楽協会を設立した。ドイツの影響下に置かれたフランス音楽界にフランス独自の音楽を根付かせようとした運動だった。ドビュッシー自身も1888年にこの協会に加入し、牧神の午後への前奏曲(1894年)もここで初演されている。その点で問題意識は重なっていた。

クロッシュはこう書いている。

M.サン=サーンスは、世界中の音楽を誰よりも知り尽くした人。リストの激情的な天才を世に知らしめ、老バッハへの信仰を広めた人。その彼が、なぜこれほど完全に道を誤ることができたのか。

— ムッシュー・クロッシュ

皮肉にも聞こえるが、ここには本物の困惑がある。なぜなのか。

サン=サーンスは、交響曲や協奏曲という西洋音楽の伝統的な形式を土台として、その枠の中でフランス的な表現を追求した。形式を信頼し、その中で自由を求めた。

ドビュッシーが問題にしたのはそこだった。形式は感情のテンプレートでもある。交響曲にはこういう展開があり、こういう頂点があり、こういう感情的な解決がある——その型通りのジェスチャーをなぞることが、ドビュッシーには「感傷主義」として映った。

感傷性が嫌いだ! だが、彼の名がカミーユ・サン=サーンスだということを、忘れていられたらと思う。

— ムッシュー・クロッシュ、『ムッシュー・クロッシュ、反ディレッタント』(1921年)

ドビュッシーにとって、ドイツ音楽からの脱却は様式の問題だけではなかった。音楽が何のために存在するか、という問いだった。形式や意味ありきで音楽を作るのではなく、感覚・色彩・テクスチャそのものを音で表すこと。だから「交響曲」でも「交響詩」でもなく、「交響的素描」だった。

1902年のペレアスとメリザンド初演でサン=サーンスが途中退席したとされるエピソードは、この断裂を象徴している。旋律も形式もないと見えた音楽に、ドビュッシーは形式からの解放を見ていた。


ガムランの残響

1889年のパリ万博でドビュッシーはジャワのガムランに出会い、繰り返し演奏会場に足を運んだ。後年こう書いている。

あらゆるニュアンスを、名付けられないようなニュアンスすら含んでいたジャワ音楽のことを思い出したまえ。そこでは、トニックやドミナントは、おりこうちゃんでない小さな子供のための役にも立たない幽霊にすぎなかった。

— ドビュッシー、1895年頃

主音と属音——西洋音楽の和声体系を支える2本の柱——が「幽霊」にすぎない音楽が存在する。ガムランはドビュッシーにとって、形式や和声の枠組みが自明ではないという体験的な証拠だった。

の第1楽章冒頭では、弦楽器が細かい音型を重層的に積み上げ、低音部はそれとは独立したゆったりした動きを保つ。複数のリズム層が同時に走り、どれかが主役になるわけではない。ガムランで出会ったヘテロフォニーの語法が、オーケストラという大きな編成の中で生きている。


「海が聞こえない」

初演は1905年10月15日、パリのラムルー管弦楽団。批評は厳しかった。

かつてペレアスとメリザンドを擁護した批評家ピエール・ラロは書いた。

私には海が聞こえない。見えない。匂いもしない。

— ピエール・ラロ、『ル・タン』、1905年

別の批評家は「皿の中で揺れる水」と呼んだ。

これらの批評が意図せず証明しているのは、聴衆が「音楽で海を聴く」ことを期待していたということだ。波の音、嵐の轟き——田園交響曲のような自然の音の再現を。しかしドビュッシーが書いたのはそういうものではなかった。海の音を模倣するのではなく、海のそばにいる人間が感じるものを音で喚起しようとした。その意図と批評の間にあるすれ違いが、「海が聞こえない」という言葉に凝縮されている。

転機は1908年1月19日だった。ドビュッシー自身が指揮台に立ち——生涯初めて指揮棒を握った45歳の作曲家が——指揮したは大喝采を受けた。

Sources

Pieces in this article

Discover more on the app

Download on the App Store