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同じ誕生日、共に空けたワイン:チャイコフスキーがハンブルクでブラームスと出会い、自作の第5番を見直した日

同じ誕生日、共に空けたワイン:チャイコフスキーがハンブルクでブラームスと出会い、自作の第5番を見直した日

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5月7日というのは、音楽史のなかでも妙に印象的な日付です。1833年のこの日、ヨハネス・ブラームスがハンブルクに生まれました。その7年後の1840年、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーがヴォトキンスクに生まれました。19世紀後半を代表する二つの声──ドイツ古典主義の継承者と、感情をむきだしにする抒情的なロシア人──は、ほぼ確実に一緒に祝うことのなかった誕生日を共有しています。

ただ、ワインを何本か共にしたことはありました。一度ならず。


出会う前の、長距離越しの不満

ブラームスに会う前から、チャイコフスキーは彼に対して「問題」を抱えていました。ただし、それがどんな種類の問題だったのかは、正確に書いておく必要があります。

1872年の時点では、後年のような燃えるような個人的な憎しみではありませんでした。ブラームスについて公に発表された最初のコメントで、チャイコフスキーはブラームスを「凡庸な作曲家」、シューマンの予言に応えなかった人物と評しています──ただし、その同じ文章のなかで、弦楽六重奏曲第1番には見るべき部分があるとも認めているのです。トーンは「失望」であって、「激怒」ではありませんでした。

熱が燃え上がるのは1870年代後半のこと。そしてそれは、ブラームス本人というより、ドイツでブラームスが「象徴」になってしまったことへの反発でした。保守的な批評家たち──エドゥアルト・ハンスリックを筆頭に──はブラームスをベートーヴェンの正統な後継者、リストやワーグナーの「退廃」に対する防壁として祭り上げていました。一方で、ドイツに届くわずかなチャイコフスキーの作品は、無視されるか、嘲笑されていました。1878年9月、ビルゼはベルリンでの『フランチェスカ・ダ・リミニ』初演(ドイツでの初お目見え)を、ブラームスの新作・交響曲第2番と組み合わせました。ドイツの新聞は予想通りに二派に分かれ、その大半がブラームスの「牧歌的な」交響曲を絶賛し、『フランチェスカ』を「地獄のような耳の拷問」(Ohrenschinderei)、あるいは「音楽的なしかめ面」と切り捨てました。1881年にチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をウィーンで初演することになるアドルフ・ブロツキー──そのブロツキーが演奏した協奏曲を、ハンスリック自身は「悪臭を放つ音楽」と評するのです。同じブラームス礼賛派の批評家が、また破壊役を演じる構図でした。

1878年3月、パトロンのナデジダ・フォン・メック宛ての書簡で、チャイコフスキーはやや常軌を逸した有名な一節を書いています。彼はこの手紙で、ヨーロッパの音楽都市を訪れた際に、自分の作品を広めてもらうために有名な作曲家たちに「ご機嫌伺い」をする気にはなれない、と説明しています。そしてその理由を説明するために、ある仮想のシナリオを組み立てました。仮にウィーンで名を売りたいとする。となればブラームスを訪ねざるを得ない。そのとき、自分が正直であろうとするなら、こう言うほかないだろう──:

ブラームスは有名人で、私は無名だ。それでも、偽りない謙遜なしに言わせていただくが、私は自分のほうがブラームスより優れていると思っている。

— チャイコフスキー、ナデジダ・フォン・メック宛て書簡、1878年3月

つまり、これは厳密には、起こりもしなかった訪問のなかで交わされる、想像上の独白なのです。そして、実はブラームスについての文章ではありません。一人のロシアの作曲家が、評判の作られる都市で「無名」として扱われることへの傷ついたプライドについての文章です。ここでの「ブラームス」は半分は実在の作曲家、もう半分は彼を祭壇に上げたドイツの批評体制全体の代名詞なのです。

1886年の日記には、もっと激しい言葉が並びます。マイダノヴォの自宅でブラームスの交響曲をピアノで弾いてみたあと、チャイコフスキーはこう書きました──「あの悪党ブラームスの音楽を弾いてみた。なんという才能のないクズめ!」。それ以上の言葉も並んでいます。ただ、これらは公表を意図しない私的なノートであり、チャイコフスキー自身、後年その怒りを少なくとも部分的には後悔することになります。

つまり、長距離越しの不満。美的な不一致と傷ついたプライドが絡み合った複雑な反応。彼はまだ、その人物に会ってすらいなかったのです。


ライプツィヒ、1888年元日:最初の対面

二人が出会ったのは、1888年元日、ヴァイオリニスト、アドルフ・ブロツキーの自宅でした。ブラームスは新作のピアノ三重奏曲第3番ハ短調 作品101のリハーサルのために来ていました。日記のなかで「気取った有名人」と覚悟していたチャイコフスキーは、部屋に入ることをためらいました。ブロツキーがなだめすかしてようやく中に入れたほどです。

そこで彼が見たものは、まったく予想外のものでした。ヴァイオリニストの妻、アンナ・ブロツキーが二人の出会いを目撃しています:

チャイコフスキーは生まれながらの貴族で、立ち居振る舞い全体に気品と洗練があり、申し分のない礼儀正しさを備えていました。一方ブラームスは、背が低くずんぐりとした体格に力強い頭部を持ち、強さと精力の塊のようでした。彼は、いわゆる「マナー」というものを公然と敵視していたのです。

— アンナ・ブロツキー、Recollections of a Russian Home(1904)

チャイコフスキーは柔らかな美しい声で言いました──「お邪魔ではないでしょうか?」 ブラームスは独特のしわがれた声で答えました──「全然。でも、なんでこんなものを聴きに来たんですか? ちっとも面白くないですよ」。

その晩、チャイコフスキーは弟モデストに手紙を書き送りました。トーンはもう、日記の記述とはまるで違っています:

ブラームスは赤ら顔の背の低い、太鼓腹の男だ。彼はとても親切に接してくれた…ブラームスはひどい飲んだくれだ。

— チャイコフスキー、モデスト宛て書簡、1888年1月

数日後、出版社主のユルゲンソン宛てに:

ブラームスと飲んでベロベロになってしまった──彼は本当に酒好きでね。彼はとてもいい人物で、思っていたほど傲慢でも全然ない。

— チャイコフスキー、ユルゲンソン宛て書簡、1888年1月

ここで起きていることに注目してください。音楽への評価が変わったわけではないのです。リハーサル後、アンナ・ブロツキーがチャイコフスキーに三重奏曲をどう思ったか尋ねると、彼は痛みを伴う正直さで答えました──「気を悪くしないでくれ、親愛なる友人よ。でも、好きにはなれなかった」。彼はやはりブラームスの音楽が好きではありませんでした。ただ、ブラームス本人のことは好きになったのです。

アンナ・ブロツキーが書き残したもう一つの光景が、嘘のように愛らしい:

いまでもブラームスがイチゴジャムの皿を掴んで、これは全部自分のもので誰にもやらないと言い張る姿が目に浮かびます。それは偉大な作曲家たちの集まりというよりも、まるで子どもたちのパーティーのようでした。

— アンナ・ブロツキー、Recollections of a Russian Home(1904)

これが決定的な転回点です。この日を境に、チャイコフスキーがブラームスの音楽について書くことは依然として冷ややかで、時には辛辣ですらあるのですが、ブラームスその人については永続的に評価が改められます。1888年秋の大公コンスタンチン宛ての手紙では、ブラームスの交響曲をなお「ベートーヴェンの戯画」と呼びつつ、同じ呼吸でブラームスの芸術的意図の「高潔な純粋さ」を認めています。二つの評価を、二つの別のものに対して、同時に保持する──その姿勢です。


交響曲第5番、完成と自己懐疑

同じ1888年、夏にチャイコフスキーは自身の交響曲を完成させていました。第5番です。

作品の完成は、彼に身体的とも言える安堵をもたらしました。手紙のなかで彼は、完成の満足感があまりにも大きく、それによって「あらゆる肉体的な苦痛を忘れる」ことができたと記しています──何ヶ月もかけて作品と格闘し、ようやく水面に顔を出した人間の言葉です。

しかし、その安堵は長くは続きませんでした。交響曲は1888年11月5/17日、サンクトペテルブルクでチャイコフスキー自身の指揮により初演されました。フィルハーモニー管弦楽団によるコンサートはまずまずの成功で、聴衆と作曲家の友人たちは作品を高く評価しました。ところが、批評家たちの反応は不満足なものでした──長年チャイコフスキーの目の上のたんこぶだった批評家ツェーザリ・キュイは、この作品を全面的に却下しました。11月12/24日、ロシア音楽協会で行われた2度目の演奏は聴衆に好評を博しましたが、チャイコフスキー自身は作品への疑念を強めていきました。月末のプラハでの演奏のあと、彼はナデジダ・フォン・メック──10年前にブラームスへの不満をぶちまけた、あのパトロン──に手紙を書いて、容赦のない判決を下します:

私はそれは失敗作であると結論するに至った。

— チャイコフスキー、ナデジダ・フォン・メック宛て書簡、1888年12月

それで終わりではありませんでした。彼は、この交響曲には「不快な、不必要な、ちぐはぐな、不誠実な」何かがあり、それを聴衆も本能的に認識している、と書きました。彼が受けた喝采は、本当はこの新しい交響曲ではなく、それまでの作品に対するものだったと感じていました。第5番を第4番と比べて不利に置き、第4番のほうが「計り知れないほど優れている」と書いています。そして、自分は創造的に枯渇しているのではないか、ただ以前の様式を繰り返しているだけではないか、と問いかけました。「第2主題が不成功だ」とも、別の場所で告白しています。

同時代のロシアの巨匠、アントン・ルービンシュタインの反応はもっとシンプルでした──彼はこの作品を嫌いました。チャイコフスキーは後年、ややブラックなユーモアを込めて、ルービンシュタインの第5番への嫌悪は彼の最初期の習作群への嫌悪と同じレベルだ、と書き残しています。

つまり、1889年3月にチャイコフスキーがハンブルクに到着して交響曲第5番を指揮しようとしていたとき、彼自身はこの作品をあまり気に入っていなかったのです。


ハンブルク、1889年3月12日:再会

ブラームスは3月8日、皇帝ヴィルヘルム1世の追悼コンサートで自身の交響曲第4番を指揮するために、生まれ故郷のハンブルクへ来ていました。チャイコフスキーは3月11日に到着しました。二人は同じホテルに滞在していることが判明し──そしてブラームスは、まさに出発しようとしていたところを、出発を一日延期しました。チャイコフスキーの朝のリハーサルに立ち会うために。

リハーサルのあと、二人の作曲家は昼食に出かけました。

ブラームスは食事の席で、まったく率直でした。最初の3楽章は楽しんだが、終楽章は──だめだ。全体としてこの交響曲は気に入らなかった、と。

チャイコフスキー自身の記述によれば、彼は傷つきませんでした。その晩、ホテルから弟モデストに手紙を書いています:

ブラームスは交響曲を聴くためにわざわざ丸一日滞在を延ばしてくれた。とても親切だった。リハーサルのあと、二人で昼食に出かけて、ちょっとした飲み会になった。彼はとても感じのいい人で、その率直さと飾らなさが気に入った。

— チャイコフスキー、モデスト宛て書簡、1889年3月

「ちょっとした飲み会になった」。上品な昼食会ではなく、長く続いた午後、何本ものワインの瓶を空けながら──互いに敵対的な批評家たちにさんざん引き比べられてきた、10年来の二人の作曲家の間で。ブラームスは面と向かって、これから指揮することになっている交響曲の一部はよくないと告げました。そしてチャイコフスキーは、それゆえに彼を好きになったのです。

ロシアに戻ったチャイコフスキーが友人ニコライ・カシュキンに繰り返し語った思い出によると、ブラームスの批評は「あまりに誠実で、あまりにも飾らずに」述べられたので、まったく傷つかなかった、それどころか、この率直な芸術家への共感がいっそう深まった、といいます。そしてチャイコフスキー自身、フォン・メック宛ての手紙で第5番への不満を綴っていたばかりでした。「失敗作」「不快な」「不誠実な」──ブラームスの判断は、チャイコフスキー自身の判断とそう遠くない場所にありました。

チャイコフスキーは同じ率直さでお返しに、ブラームスの作曲活動について自分の意見を述べました。そして、ロシア音楽協会の名のもとに、ブラームスを翌シーズンのモスクワ公演に客演指揮者として招待しました。ロシアを訪れたことのなかったブラームスは、そして今後も訪れるつもりのなかったブラームスは、辞退しました。

二人が再び会うことは、なかったのです。


3月15日:本番、そして自作への評価が変わる

3日後の3月15日、チャイコフスキーは本番のコンサートを指揮しました。ブラームスはすでに街を後にしていました。ハンブルクの聴衆──ブラームスの同郷の人々である彼らが、というのが意外なところです──は、この交響曲を好意的に受け止めました。演奏は壮麗で、成功でした。

チャイコフスキーはハノーファーへと旅を続け、そこから甥のウラジーミル・ダヴィドフに手紙を書きます(書簡3814、1889年3月5/17日付)。3ヶ月前の手紙とは、まるで別人のような筆致です:

その結果、私はこの交響曲に対して悪い意見を持たなくなり、再び好きになった。私の以前の判断は不当に厳しかった。

— チャイコフスキー、ウラジーミル・ダヴィドフ宛て書簡、1889年3月5/17日

秋のあいだじゅう「不快」「不誠実」と切り捨てていた作品を、彼はもう一度好きになっていました。そして、自分の以前の判決が不当に厳しかったと、書面ではっきり認めました。

この交響曲はその後、レパートリーのなかでも最も愛される作品のひとつになっていきます。


半年後

1889年9月、ブラームスは再びハンブルクに戻ってきました。今度は、生まれ故郷から名誉市民の称号を授与されるためでした。その滞在中、彼はチャイコフスキーのドイツ側の出版社主、ダニエル・ラーターとばったり出会います。ラーターがロシアに送った手紙によれば、ブラームスが最初に発した言葉はこうでした:

チャイコフスキーは今どこにいるんだ? 元気にしているか?

— ブラームス、ダニエル・ラーターからの書簡で報告、1889年9月

そしてブラームスはラーターに、チャイコフスキーへ自分のよろしくを伝えてくれと頼みました。

チャイコフスキーがブラームスの音楽を好きになることは、ついにありませんでした。晩年、ハンブルクのある批評家に、ブラームスを「音の数学者」と評したと言います──主題の展開には敬服するが、霊感と感情に欠ける、と。

ただ、人物としてのブラームスへの態度は、1888年元日のあの日以来、もう変わることはありませんでした。


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