「フィンランドの森」から出て聴くシベリウス: 交響曲第5番
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シベリウスは、たいてい「フィンランドの国民的作曲家」として紹介される。あるいは「北欧の厳しい自然」「カレワラ (フィンランドの民族叙事詩) の神話」「冷たく澄んだ大地の音」といった言葉で語られる。
どちらも事実ではある。ただ、それで済ませてしまうのはもったいないし、シベリウス本人が望んだ受け取られ方でもなかっただろう。
この記事では、まずこの2つのラベル ── 「フィンランドの作曲家」と「北欧の自然」 ── を、シベリウス本人がどう受け止めていたかから見ていく。そのうえで、ラベルの先にある彼の本当の独自性へと話を進めたい。
ナショナリストというラベル
シベリウスの伝記を書いた Glenda Dawn Goss は、こう書いている。
ジャン・シベリウスは長らくフィンランドの国民意識の象徴として扱われてきた。彼の音楽はロシア支配への抵抗の象徴とされてきた。だが、このナショナリズムの眼鏡は、ありのままのシベリウスをかえって見えにくくしてきた。
— Glenda Dawn Goss, Sibelius: A Composer's Life and the Awakening of Finland (2009)
シベリウス本人はどうだったのか。彼は周囲のフィンランド民族主義運動からは、いくぶん距離を置いていた。
シベリウスの母語はスウェーデン語だった (Bullock 2011)。19 世紀のフィンランド大公国では、政治・文化の上層はスウェーデン語話者が占めており、シベリウスはその上層の出身だった。妻 Aino は逆にフィンランド語民族主義 (Fennoman) 派の Järnefelt 家の出だったが、シベリウス自身は その運動の外部の人だった。
Bullock (2011) によれば、シベリウスは「フィンランド民族主義プロジェクトの根幹に対して、相当な懐疑を抱いていた」。彼は 1910 年の日記にこう書いている。
カレワラを読み返したが、自分はこの素朴な詩からずいぶん離れてしまったと感じた。
— Philip Ross Bullock, Sibelius and the Russian Traditions (2011)
彼は《クレルヴォ》《レンミンカイネン組曲》《ポホヨラの娘》《タピオラ》など、カレワラを題材にした作品を生涯にわたって書き続けた人だった。だがこの 1910 年の発言は、Bullock が「フィンランド民族主義プロジェクトの主要な要素への懐疑」の例として引用していることに注意したい。つまり、彼が距離を取ったのは カレワラそのものというより、それを民族の聖典として担ぎ上げる 当時のフィンランド民族主義的な扱われ方だったと読める。実際、第一次大戦の直前 (1914 年頃) には、「フィンランド語話者よりスウェーデン語話者を好む」とも公言している (Bullock 2011)。
初期の伝記作家 Karl Ekman に語った言葉も残っている。
政治というものに、それ自体としては私は興味を持ったことがない。空虚な議論や、素人くさい政治論議が嫌いだった。
— Karl Ekman, Jean Sibelius (Bullock 2011 が引用)
友人の指揮者 Robert Kajanus が《第2交響曲》を「反ロシア・フィンランド自己実現の物語」と解釈したとき、シベリウスは 明確にそれを拒否した。Bullock (2011) はこれを「シベリウスが議論の対象になることに敏感であり、彼の感情の中で芸術的創造性が絶対的に優先されていた証拠」と評している。
1900 年のパリ公演のあと、シベリウスは自分の「ナショナリスト作曲家」というイメージを問い直し始める。彼はドイツで本格的な交響曲作家として認められたいと思っていた。だが、より抽象的で普遍的な音楽言語を発展させようとする彼の試みは、フィンランドの批評家からはむしろ彼の愛国心への裏切りと受け取られた (Bullock 2011)。一方ドイツの批評家の側からは、彼は「単なるナショナリスト」「チャイコフスキーや北方ロシア人の亜流」「冷たい北の異国趣味の作曲家」として軽く扱われた (Bullock 2011)。どちらの側からも、彼が望む形では受け取られなかった。
ただし、シベリウスを完全に「ナショナリズムから無縁の人」と片付けるのも違う。何より、彼は キャリアの最初期からフィンランドの「国家公認の作曲家」だった。
イギリスの音楽評論家 Lyle (1927) によれば、シベリウスはベルリン留学から帰国した直後の 1890 年頃 ── まだ出世作《クレルヴォ》(1892) も書く前 ── に、すでに当局から 年金 (annuity) を授与されていた (当局がどの機関を指すかは明示されていないが、当時のフィンランドはロシア帝国の自治大公国だったので、フィンランドの公的機関と思われる)。
ベルリンから帰国した直後、シベリウスは祖国の同胞たちから、彼らの民族的性質を音楽で唯一無二の形で表現できる作曲家として称賛された。「当局」もこれを公式に認め、彼に年金を授与し、財政的な心配なく作曲に専念できるようにした。
— Watson Lyle, "The Nationalism of Sibelius" (1927)
この年金は段階的に増額された。50 歳の誕生日 (1915) に国会 (Finnish Diet) が年金を授与し、その日に第5交響曲が国民的祝祭として初演された。60 歳 (1925) には大統領から 白薔薇勲章 (Order of the White Rose of Finland) が授与され、年金はさらに 5 万マルク増額されて計 10 万マルクになった。さらに、Lyle (1927) は時期を明示していないが、別の機会には 国民有志が「全階級から」27 万マルクを醵金して贈った (うち 15 万マルクは即時利用可能として渡された) とも記している。
つまりシベリウスは、若い頃から国家と国民の双方からナショナリズムの象徴として扱われ続け、それを明確に拒否することはなかった。
実際、彼は自分が「ナショナリスト作曲家」として受容されることを、ある程度引き受けてもいた。後年、《フィンランディア》について次のような話を語っている ── 当時、ロシア帝国の検閲を避けるため、この曲は「Suomi」「Vaterland」「La Patrie」「Impromptu」などの偽の題名で各地 (北欧、ドイツの諸都市、パリ、レヴァル、リガなど。1904 年夏) で演奏されていた、と (Bullock, 2011)。
ただ、この話には異論もある。研究者 Johnson は、この話がシベリウス自身によって数十年後に語られたものであり、当時のヘルシンキの新聞では 1901 年 11 月以降ふつうに「Finlandia」の名で報じられていた事実とも食い違うことを指摘している (Bullock 2011 が紹介する Johnson の議論)。Johnson によれば、検閲の物語は事後的にドラマチックに脚色されている 可能性がある、ということだ。
つまりシベリウスは、最初期から「ナショナリスト作曲家」として受容されることを引き受け、後年もその像を 自ら演出していた可能性がある。完全にナショナリズムから無縁だったわけではなく、それを受け入れ、語り直していた部分がある。
その上で、彼は同時に「これだけで自分を理解されることへの違和感」も抱えていた。
「北欧の自然」というラベル
ナショナリズムと並んで彼の音楽を語るときによく出てくるのが、「北欧の自然」というラベルである。これも、シベリウス本人にとっては少し微妙なものだった。
もちろん、彼が北欧の自然から強い影響を受けていたこと自体は疑いがない。彼はヘルシンキ郊外の森のなかに自宅 Ainola を構え (1904 年完成)、ここで生涯のほとんどを過ごした。日記には、自然から強い霊感を受けていたことを示す記録が多く残っている。
ただし、当時のヨーロッパで「北方的 (Northern)」というレッテルがどう機能していたかを知っておくと、別の見え方も出てくる。
ドイツの批評家 Walter Niemann は 1917 年、シベリウスの交響曲を「単なる 北方的なもの (merely Northern)」と呼び、「真の交響的創造に欠ける」と切り捨て、シベリウスを「我々の仲間ではない (not one of us)」と位置づけた (Hepokoski 1993)。彼の音楽は、Niemann によれば「フィンランド方言で書かれたチャイコフスキーの《悲愴》」のようなものでしかなかった。
「Northern」というレッテルは、当時のドイツ語圏では 「ヨーロッパ音楽の本流の周辺にあるもの」 というニュアンスを帯びていた。現代の私たちが「北欧の冷たい大地を感じさせる音楽」と言うとき、その褒め方は、当時の音楽界では 半ば無意識に作曲家を辺境に位置づけるラベルとして機能していた側面がある。
シベリウス自身、このような扱われ方には抵抗があった。1901 年 5 月、イタリアからフィンランドへの帰路でドヴォルザークに出会ったあと、彼は友人 Axel Carpelan への手紙にこう書いている。
ヴェルディは民族的であると同時にヨーロッパ的であることに成功した。グリーグはせいぜい 「地方の方言 (local dialect)」 に過ぎない。
— シベリウスから Axel Carpelan への書簡 (1901 年)。Bullock (2011) が引用
「地方の方言」── 自分がそう扱われたくない、と言っているわけである。彼が 1900 年代から「より抽象的で普遍的な音楽言語」を発展させようとしたのは (Bullock 2011)、フィンランドや北欧の枠で受け取られるのではなく、ヴェルディのように「民族的でありかつヨーロッパ的」と評価されることを目指した試みでもあった。自然から離れたかったのではなく、自然から受け取ったものを 「ヨーロッパ音楽の言葉」で語りたかった のだ。
1900 年代の音楽の見取り図
ここで少し時代を整理しておく。
シベリウスが第5交響曲を書いた 1914–1919 年頃のヨーロッパは、音楽がいくつかの方向に分かれていた時代だった。
簡単に補足しておくと、19 世紀のヨーロッパ音楽は ロマン派と呼ばれる時代にあった。ベートーヴェンに始まり、シューマン、ブラームス、ワーグナーといった作曲家たちが、感情の起伏や物語性を大編成のオーケストラに乗せて表現する、というのが大まかな共通項である。音楽は 調性という、ひとつの中心となる音 (主音) と中心となる和音があり、聴き手が「ここに戻ってきたら落ち着く」という解決の感覚を持てる枠組みのなかで書かれていた。
20 世紀に入ると、このロマン派の枠組みをどうするかをめぐって、音楽家たちの方向は分かれていく。
一方には、ロマン派をさらに発展させた継承者がいた。R. シュトラウスやマーラーらは、大編成の管弦楽と濃密な和声でロマン派の遺産を膨張させていた。もう一方には、シェーンベルクやストラヴィンスキーらの前衛があった。彼らは 調性そのものを解体し (=主音を中心にしない音の組み立て方を探り)、伝統的な音楽の文法を根本から書き換えようとしていた。
どちらの陣営にも共通していたのは、ベートーヴェン以来の交響曲の伝統 ── 主題 (=楽曲の核となる短い旋律) を提示し、展開し、再現する形式 ── をどう扱うかという問いだった。継承するのか、破壊するのか。
シベリウスはそのどちらにも、完全には属さなかった。
1911 年 11 月 10 日、彼は妻 Aino に宛てた手紙で、「進歩的な (progressive) モダニスト」として大陸の音楽シーンと張り合うことを 明示的にやめると宣言している。
世界は世界で勝手に進ませよう。競争は他の人たちに任せる。私は私で、私たちの芸術をしっかりとつかんでいく。
— シベリウスから妻 Aino への手紙 (1911 年 11 月 10 日)。Hepokoski (1993) が引用
1914 年には、自分の道を 「気取った人工性が少ない (less pretentiously contrived, less artificial)」 ものと表現している (Hepokoski 1993)。後年、秘書 Santeri Levas に語った言葉も伝わっている。
音楽の本質は形式ではなく、内容にある。音楽そのものが、その外的な構造を決定する。
— 秘書 Santeri Levas に語った言葉。Hepokoski (1993) が引用
シベリウスは音楽の形が生まれることを 「氷の結晶」 に例えた。雪の結晶が永遠の法則に従って美しい模様を描くように、音楽は 内側から自ずと形をなすのだ、と。
これは前衛のように形式を 破壊するのでもなく、保守のように形式を 守るのでもない、別の態度である。
第5交響曲 ── 主題が育っていく音楽
シベリウスの交響曲のうち、第4 (1911) と第5 (1915–19) はしばしば対比される。
第4交響曲は、それまでの彼の作風と比べてかなり「実験的」で、暗く、聴き手を選ぶ作品である。シベリウス自身、これを「当時の作曲の流行への鋭い抗議」と呼んだ。Hepokoski (1993) によれば、彼が念頭に置いていたのは、当時のドイツで広まっていた肥大化した作風 ── 巨大な管弦楽編成と複雑な仕掛けで「内面の空虚を覆い隠す」ような書き方 ── である。彼はそれを「音楽的な土木工事 (musical civil-engineering)」と呼び、自分の第4交響曲には 「サーカスじみたところは一切ない (nothing, absolutely nothing of the circus about it)」 と書いた。
この交響曲が聴衆を困惑させたのは、その厳しい禁欲性のためだった。Barnett (2007) によれば、楽曲全体が 「三全音 (tritone)」── 中世音楽理論で「悪魔の音程 (diabolus in musica)」と呼ばれた、安定しない不協和な音程 ── に支配されている。冒頭でホルンとファゴットが暗く奏でる動機 (C-D-F♯-E) からして既にこの三全音を含んでおり、シベリウス自身、これは 「運命のように厳しく (as harsh as fate)」 聞こえねばならないと述べている。当時の聴衆にとって、解決感のある美しい和音に乗って物語が進む後期ロマン派的な交響曲とは違う、この作品の禁欲的で居心地の悪い音響世界は、戸惑いを呼ぶものだった。初演当時の聴衆は困惑し、批評は割れた。
その数年後に書かれた第5交響曲は、堂々とした変ホ長調で終わる、表面的には「わかりやすい」作品である。このため、しばしば「第4で前衛に踏み込んだシベリウスが、第5で 保守回帰した」と言われる。
この見方は、大きな括りで言えば、間違いではない。第5交響曲は確かに、ベートーヴェン以来の交響曲の伝統的な枠組みのなかに収めて理解することもできる。だが、楽譜の内側を見ると、もう少し違うことが起きている。
第5交響曲の音楽は、最初から完成された主題が現れて、それを展開するという普通のやり方をしていない。
例えば第1楽章の冒頭。Hepokoski (1993) は最初の数小節を細かく分析している。曲が始まってまもなく、短い和音のかたまりが 4 回繰り返される箇所がある。だが、毎回ただ繰り返されるのではなく、繰り返されるたびに リズムと音型がほんの少しずつ拡大していく。やがてその音型が、主題らしい姿に整っていく ── という流れである。
つまり、聴き手の耳の前で、主題が「生まれていく」過程そのものが音になっている。
Hepokoski (1993) はこれを Rotational Form (回転形式) と Teleological Genesis (目的論的生成) と呼んだ。難しい用語だが、内容は素朴である。素材を何度も回しながら、毎回少しずつ加工して、最終的にひとつの完成形に向けて育てていく、というやり方だ。
この原理は楽章のなかで完結する場合もあれば、複数の楽章にまたがる場合もある。第5交響曲の終楽章で有名な ホルンの揺れる主題 ── 「白鳥讃歌 (Swan Hymn)」と呼ばれる ── は、実は単独で書かれたのではなく、前の第2楽章 (緩徐楽章) のなかで、リズム・音色・主題の素材があらかじめ準備されている。それらが終楽章に持ち込まれ、いくつかの段階を経て、ホルンの広々とした主題として完成する。第2楽章は、いわば「主題が形になる前の場」として機能している。
ちなみに「白鳥讃歌」という呼び名は、シベリウス本人のものではない。第5交響曲の改訂版を聴いた親友 Axel Carpelan が、1916 年 12 月 15 日の祝賀状でこの主題を 「比類のない白鳥讃歌 (swan hymn beyond compare)」 と呼んだことに由来する (Hepokoski 1993)。
自然はきっかけ、音楽は別
第5交響曲のフィナーレに現れる白鳥讃歌は、シベリウスが実際に自然のなかで体験した出来事と結びついている。1915 年 4 月 21 日の彼の日記にはこう書かれている。
16 羽の白鳥を見た。我が生涯における最も大きな経験のひとつ。ああ、神よ、なんという美しさよ。
— シベリウスの日記 (1915 年 4 月 21 日)。Barnett (2007) が引用
これを読むと「やはり自然描写の音楽か」と思いたくなる。
だが、そう単純ではない。先ほど見たように、白鳥讃歌は第2楽章で素材があらかじめ準備され、終楽章のなかで段階的に育てられた構造的な到達点である。「白鳥を見て一気に書きつけた」ものではない。
そもそも第5交響曲は最終形に至るまで 1914 年から 1919 年まで 5 年を要し、3 つの版が存在する作品である。1914 年 9 月、まだ手探りの段階で、シベリウスは親友 Axel Carpelan にこう書いている。
私はまだ泥沼の中にいる。だが、私が登るべき山の頂が一瞬見えた。神が一瞬扉を開き、彼のオーケストラが第5交響曲を演奏している。
— シベリウスから Axel Carpelan への手紙 (1914 年 9 月)。Hepokoski (1993) が引用
シベリウス自身、この作品の作曲過程を後年 「神との闘い (wrestling with God)」 と呼んだ。1916 年の改訂版を完成させたあとも納得できず、1917 年 1 月の日記には 「私の魂は病んでいる」「私の作曲の方向は袋小路に入ってしまった」 と書きつけ、1919 年に至るまで楽曲全体の構造を繰り返し作り直した (Hepokoski 1993)。白鳥を見たという体験は、その長い格闘のなかの一場面に過ぎない。
自然は きっかけかもしれない。だが、音楽の 設計は別の場所で、長い時間をかけて行われている。
立っていた場所
ここまでの話を整理すると、シベリウスを見る角度には大きく3つある。
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「フィンランドの国民的作曲家」というラベル よく言われる見方。これは半分本当で、半分は後からつくられた像でもある。本人はフィンランド民族主義運動からはいくぶん距離を置いていたが、一方でキャリア初期から国家公認の作曲家として年金を受け、その「ナショナリスト作曲家」像を自ら演出していた部分もある。
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「北欧の自然を歌う作曲家」というラベル これも入り口としては悪くない。本人がフィンランドの森に住み、自然から強い霊感を受けていたのは事実だし、彼の楽曲から感じられる雰囲気もそれを裏付ける。だが当時のヨーロッパ音楽界において「北方的 (Northern)」は作曲家を辺境に位置づけるラベルでもあり、シベリウス自身は ヴェルディのように民族的でありかつヨーロッパ的に評価されたいと考えていた。
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「第3の道を切り拓いた作曲家」 ── 本当の独自性 これが、最初の2つのラベルでは見えなくなりやすい部分である。後期ロマン派でも前衛モダニズムでもない、自分独自の方向。大きな括りで言えばロマン派の延長線に立っているが、彼が試みていたのは、既存の形式に音を載せるのではなく、音そのものに「あるべき形」を見つけさせることだった。シベリウス自身、1912 年の日記で交響曲を 「いくつもの小川から生まれ、互いを求め合いながら、力強く海へと進んでいく川」 にたとえている。あらかじめ作った「川床 (=既存の形式)」に水を流し込むのではなく、水自身に流れる道筋を決めさせるのだ、と (Hepokoski 1993)。
その実践として、第5交響曲では、主題が冒頭から完成形で提示されるのではなく、楽曲のなかで断片から段階的に育てられて完成形に至る。Hepokoski (1993) によれば、この方向はさらに進められて、複数の楽章を継ぎ目なくひとつの流れにまとめあげる試み (「単一楽章のなかに複数楽章形式を畳み込む」) になり、最終的には単一楽章の第7交響曲 (1924) や交響詩《タピオラ》(1926) という形に結晶していく。
最初の2つのラベルは、彼の音楽の入り口としては良い。だが、入り口を入り口のままで終わらせると、その先にある3つ目 ── 音から形を発見する作曲家としてのシベリウス ── が見えなくなる。シベリウスはひとつの国の作曲家であると同時に、当時のどの音楽潮流にも完全には収まらない作曲家だった。
幸い、シベリウスは現在もよく演奏されていて、音源も豊富に手に入る。次に第5交響曲、あるいは第7交響曲やタピオラを聴くときには、メロディーの小さな断片がだんだん育っていく過程や、ひとつの素材が形を変えて違う場所に再び現れる瞬間を意識して聴いてみてほしい。フィンランドの自然や愛国の物語とはまた別の、もうひとつのシベリウスがそこにいる。
Sources
- Andrew Barnett, Sibelius (Yale University Press, 2007)
- Philip Ross Bullock, Sibelius and the Russian Traditions (2011)
- Karl Ekman, Jean Sibelius (Bullock 2011 が引用)
- Glenda Dawn Goss, Sibelius: A Composer's Life and the Awakening of Finland (University of Chicago Press, 2009)
- James Hepokoski, Sibelius: Symphony No. 5 (Cambridge Music Handbooks, Cambridge University Press, 1993)
- Watson Lyle, "The Nationalism of Sibelius" (The Musical Quarterly, Vol. 13, No. 4, Oct. 1927)


