Mozart の《レクイエム》── イメージはいかにして作られたか
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現代におけるイメージと伝承の背景
Eduard Friedrich Leybold, "Portrait of Mozart" (Public domain, via Wikimedia Commons)
Mozart の《レクイエム ニ短調 K.626》は、未完の傑作という事実とともに、いくつかのドラマチックな物語と結び付けて受け止められてきた。死を予感した天才作曲家、灰色の服を着た謎の使者からの匿名依頼、自分の葬送曲として命を削りながらの作業、最後の楽章 Lacrimosa の途中でペンが止まり、その数時間後に世を去る ── そういった物語である。Peter Shaffer の戯曲『Amadeus』(1979) と Miloš Forman の映画版 (1984) も、こうした Requiem の受容を強化してきた一例である。
音楽史の研究では、私たちが抱いているこの神秘的でロマンティックなイメージが、いつ・どうやって作られたのか、という問いがいくつかの角度から探求されてきた。本記事ではその学術的な探求を整理しつつ、Mozart 本人の時代に起きていたことと、後世が積み重ねていったものを分けて見直してみたい。
Mozart《レクイエム》の史実
残された記録には、作品成立の具体的な背景が記されている。
1791 年夏、Franz von Walsegg 伯爵 (1763–1827) が、同年 2 月 14 日に 20 歳で亡くなった妻 Anna を追悼するため、匿名の使者を通して Mozart に Requiem を依頼した (Keefe 2012)。Walsegg はニーダーエスターライヒ州のシュトゥパッハ城に住む音楽愛好家の貴族で、他人に作曲させた作品を自分の名前で演奏する習慣があったため、依頼は匿名で行われた。使者は弁護士 Johann Sortschan か執事 Franz Anton Leitgeb のどちらかだったとされる。
Mozart はまずオペラ《La clemenza di Tito》(9 月 6 日プラハ初演) と《魔笛 (Die Zauberflöte)》(9 月 30 日初演) の作曲を済ませてから、Requiem に本格的に取り組んだ (Keefe 2012)。しかし、同年 11 月 20 日前後に病に倒れ、12 月 5 日に亡くなる。譜面に残されたのは、Introitus の完全なスコア、Kyrie 以下 Lacrimosa 冒頭 8 小節までの声楽パートと低音バス、一部のオーケストレーション。Sanctus、Benedictus、Agnus Dei、Communio には自筆譜がない (Keefe 2012)。
残された妻 Constanze は依頼料の問題もあり、すぐに弟子たちに補筆を求めた。まず依頼されたのが Joseph von Eybler (26 歳)。Eybler は Mozart の自筆譜の上に直接書き加える形で作業し、Sequentia の最初の五楽章 (Dies irae、Tuba mirum、Rex tremendae、Recordare、Confutatis) に主に弦楽パートを補ったところで、最終的に作業を断念して譜面を Constanze に返した (Kemme 2009)。
引き継いだのが Mozart の弟子 Franz Xaver Süssmayr (25 歳)。Süssmayr は Eybler の書き込みのある譜面ではなく、新たに楽譜を一から書き起こし直すという作業を選んだ。これは Constanze 側の意向と関わっていた ── 複数の筆跡が残った譜面では Mozart 自身による完成稿として Walsegg に渡すことができず、依頼料の残りを受け取れない恐れがあったため、Süssmayr が Mozart 風の筆跡を含めてすべて清書する必要があった。Süssmayr は Eybler の補筆を一部取り入れつつ大部分を書き直し、Lacrimosa の続き、Sanctus、Benedictus、Agnus Dei、Communio を新たに補筆して、1792 年春までに完成稿を Walsegg に引き渡した (Kemme 2009、Keefe 2012)。今日広く演奏されているのは、この Süssmayr 補筆版である。
1960 年には、音楽学者 Wolfgang Plath がベルリン国立図書館で、Mozart が Lacrimosa の続きとして「アーメン・フーガ」を構想していたスケッチを発見している。1988 年には Richard Maunder が新しい補筆版を出すなど、19 世紀以降も補筆は何度も書き直されてきた。
そもそも「レクイエム」とは何か
レクイエムとは、カトリック教会における「死者のためのミサ曲」のことだ。ラテン語の入祭文「Requiem aeternam dona eis, Domine (主よ、彼らに永遠の安息を与えたまえ)」から、典礼形式自体が「レクイエム」と呼ばれるようになった。葬儀や追悼ミサで演奏される、特定の宗教儀礼に奉仕する音楽である。
Mozart の Requiem の楽章構成は次の通り。
- Introitus (入祭文): Requiem aeternam
- Kyrie
- Sequentia (続誦): Dies irae (怒りの日) → Tuba mirum → Rex tremendae → Recordare → Confutatis → Lacrimosa (涙の日)
- Offertorium (奉献文): Domine Jesu Christe、Hostias
- Sanctus、Benedictus、Agnus Dei、Communio
Sequentia の最後にある Lacrimosa の歌詞冒頭は「lacrimosa dies illa / qua resurget ex favilla / judicandus homo reus (涙のその日、灰のなかから罪深き人間が裁きを受けるために蘇る日)」── 最後の審判の朝、死者が起き上がる嘆きの場面である。Mozart 自身の手による楽譜が止まっているのは、まさにこの楽章の冒頭 8 小節目だった。
Mozart 以前にも、Ockeghem、Palestrina、Biber らがレクイエムを書いており、いずれも教会音楽の一形式として扱われていた。Mozart 以降には Verdi (1874)、Fauré (1888)、Britten (1962) など、よく知られた作品がある。Mozart の Requiem そのものも、Simon P. Keefe (2012) によれば、典礼用の宗教音楽として書かれたもので、コンサートホールでの演奏を Mozart 本人が想定していたという証拠はない。
イメージはいかにして形作られたのか ── 三つの学術的視点
本来は典礼のための宗教音楽だったこの作品が、なぜ「死にゆく天才の個人的な魂の表現」として深く受け止められるようになったのか。近年の音楽学から、三つの視点を紹介する。
同時代の冷淡な評価と、19 世紀の世俗化 (Cliff Eisen)
Cliff Eisen は、Requiem を「死にゆく天才の慰めの音楽」として読む解釈が、19 世紀以降の文化的影響と結びついていることを指摘している (Eisen 2006)。
Eisen は、19–20 世紀の主要な音楽学者たちが Requiem を「慰めとなる音楽」「死にゆく天才の敬虔な個人的表現」と評してきた事例を並べる。一方で、Mozart の同時代から 19 世紀初頭にかけての評価は、これとはかなり異なるものだったという。1803 年に出版されたある Mozart 評伝では Requiem は「陰鬱な真剣さ」「暗い憂鬱」と評され、別の評者は「敬虔な謙遜の表現を探したが見つからなかった」と書いた。また当時の音楽論講義のなかでは、Kyrie のフーガを「野蛮な音の混乱」と評する声もあった (Eisen 2006)。
Eisen が特に注目するのは、Mozart の最期と Requiem を描いた絵画の変遷である。19 世紀中頃の Franz Schramm のリトグラフ『Mozart の最後の日々の一瞬』では、ベッドの Mozart、譜面、弟子 Süssmayr、祈る Constanze、去っていく「灰色の使者」が描かれる ── 私的で内省的な死の場面である。1862 年の Henry Nelson O'Neill の油彩『Mozart ── Requiem の奇妙な予感の成就』では、ベッドサイドの一団に加えて、譜面を読む 4 人の歌い手が描かれた。
Henry Nelson O'Neil, "The Last Hours of Mozart" (Public domain, via Wikimedia Commons)
1880 年頃の Thomas Shield のリトグラフでは、ベッドの周りに小オーケストラが配置される。そして 1900 年頃の匿名油彩では、Mozart が指揮をしていて、歌い手はいない。Eisen はこれを「もっとも顕著な変容」と呼び、Requiem がこの絵のなかで「絶対音楽の作品、ロマン主義精神の真髄」に変じたとする。
Requiem は本来、ラテン語の典礼テキストに音楽を付けた声楽曲である。歌い手が描かれないということは、絵のなかで「テキスト=言葉」が消え、音楽だけが残るという構図になる。これが当時の「絶対音楽 (言葉や物語に依存しない器楽音楽)」のイメージに重なる ── というのが Eisen の見立てである。
絵画の変遷は、Requiem が教会の典礼から切り離されて演奏会の作品へと位置を変えていく過程と重なる、と Eisen は論じる。19 世紀ロマン派において、言葉や物語に依存しない器楽は、人間の内面を表現できる最高の芸術形式として神聖視されていた。
実際の演奏史も同じ方向に進んだ。最初の演奏は 1791 年 12 月 10 日、Mozart の死の 5 日後、ウィーンのミヒャエル教会での葬儀ミサ ── これは典礼用途だった。1793 年 1 月にはコンスタンツェのための慈善コンサートが同じくウィーンで開かれている (Keefe 2012)。19 世紀に入ると、Requiem はヨーロッパ各地のコーラス団体やコンサートホールで演奏されるようになる ── 1801 年のロンドンのコヴェント・ガーデン、1804 年のパリ音楽院の学生による演奏のほか、マンハイム、ブラウンシュヴァイク、ライプツィヒ、フランクフルトなどでも演奏が行われた (Eisen 2006)。演奏される機会も、特定の死者の追悼を離れて拡散していく。ベートーヴェンやナポレオンの葬儀でも歌われるなど、特定の宗教的文脈を超えて「死そのもの」を象徴する音楽として用いられるようになった (Eisen 2006)。
E. T. A. Hoffmann はこの状況を端的に評している:
コンサートホールで演奏される Requiem は、もはや同じ音楽ではない。それは舞踏会に現れた聖人だ。
— E. T. A. Hoffmann (Eisen 2006 経由)
「芸術宗教」と「変容」(Elizabeth Kramer)
Elizabeth Kramer は、別の経路を辿っている (Kramer 2006)。彼女が中心に据えるのは、19 世紀初頭のドイツ語圏で広がった「芸術宗教」── 芸術を娯楽ではなく信仰のように崇める思想だ。
Kramer によれば、1800 年前後のドイツ語圏では、コンサート、作曲家、音楽作品それぞれが神聖な性質を持つと信じられるようになった ── 聴衆は祈りに近い瞑想的態度で音楽を聴く、作曲家は神として崇められる、音楽作品は他のどんな芸術形式よりも神的なものを顕現する力をもつ。Wilhelm Heinrich Wackenroder の『芸術を愛する一修道士の心情吐露』(1797) と『芸術愛好家のための芸術についての幻想』(1799) が、この思想の初期の中心文献である (Kramer 2006)。
作曲家の神格化は具体的な形を取った。1810 年 8 月、当時の代表的な音楽雑誌『アルゲマイネ・ムジカリッシェ・ツァイトゥンク (一般音楽新聞)』は、Mozart、Haydn、J. S. Bach を「美・真・善の三位一体」とし、Haydn を父、Bach を子、Mozart を聖霊として描いた (Kramer 2006)。Mozart の友人だった銀行家 Joseph Anton Bridi は 1810 年から 1827 年にかけて「調和の小神殿」を建設し、その天井のフレスコ画には音楽の神格化が描かれた ── Mozart が最も若い作曲家として最初に月桂冠を受け、空中を「死後の名声の神殿」へと飛んでいく姿で。Richard Wagner は短編『パリのある終わり』(1840) でこう書いた:
私は神、Mozart、そして Beethoven を信じる … 私は聖霊と一つの不可分な芸術の真理を信じる … 高貴な芸術の真の弟子は皆、変容する。
— Richard Wagner『パリのある終わり』(1840) (Kramer 2006 経由)
Kramer 自身は、信条の前後の文章の調子からして、Wagner はある程度の皮肉を込めていた可能性があると注意している。ただし皮肉かどうかにかかわらず、作曲家をキリスト教の神と同じように告白する、という発想自体が当時の枠組みのなかにあった、という点を Kramer は強調する。
Kramer の論考の中心概念は、ここに登場する「変容」だ。元はキリスト教の概念で、新約聖書マタイ伝 17 章 1 節で Jesus が山上で栄光に包まれ姿が変わる場面を指す。これが 1800 年前後に世俗化され、芸術家・作品・聴衆が霊的な変容を経験する場として読み替えられた。
この概念が Mozart の Requiem に適用されるとき、しばしば持ち出されたのが、ルネサンス期イタリアの画家 Raphael Sanzio (1483–1520) の絵画『キリストの変容』(1516–20) との比較だった。Raphael もまた最後の作品となるこの聖画を制作中の 1520 年、37 歳で世を去り、絵は弟子の Giulio Romano らによって完成されたと長く考えられてきた。Mozart は 35 歳、Raphael は 37 歳の若死に、最高傑作の制作途上、他者の手による完成 ── という伝記的な並列が、19 世紀初頭の批評家にとって魅力的だった (Kramer 2006)。
この対比を文学的に最も具体的に展開したのが、同誌の編集長 Friedrich Rochlitz だった。Rochlitz は 1798 年の連載逸話のなかで、Mozart は「自分のための鎮魂歌を書いていると確信し、Raphael が『変容』に取り組んだように、迫りくる死の意識のなかで作曲し、Raphael と同じく自らの『変容』を成し遂げた」と描いた (Kramer 2006)。これが「死にゆく天才の自身のための鎮魂歌」物語の最初の核となる定式化である。
Rochlitz はまた、Mozart の Requiem を「新しい宗教音楽の最初のもの」と呼び、Mozart は宗教音楽を本来あるべき玉座に押し上げようとした作曲家だと描いた。重要なのは、彼が「教会音楽」ではなく「宗教音楽」という新しいカテゴリーを使ったことだ ── 作品の評価基準が、典礼上の用途から、聴衆の霊的体験へと移されたのである (Kramer 2006)。
E. T. A. Hoffmann は 1814 年の論考『古い教会音楽と新しい教会音楽』で、Mozart Requiem を「宗教音楽の典範」として位置づけ、「見えない教会」── 「地上の終焉が霊的変容を意味する芸術の僕たちの共同体」── のなかに置いた (Kramer 2006)。教会の典礼から切り離され、芸術家と聴衆の霊的体験の場としての宗教音楽、という枠組みがここで完成する。
Kramer はさらに、1820 年代の「レクイエム論争」── どこまでが Mozart の自筆で、どこからが Süssmayr の補筆か、を巡る論争 ── についても、単なる事実確認の言い争いではないと分析する。Gottfried Weber は作品の真正性を美的基準ではなく歴史的基準で判定すべきだと主張し、Adolf Bernhard Marx は「たとえ他人の筆が入っていても、作品全体に Mozart の精神が宿っている」と擁護した。Kramer はこれを、歴史的事実を重視する立場と、作曲家の精神性を重視する立場の、それぞれの音楽観・信仰の交錯として位置づける。
伝承を含めた集合的理解 (Simon P. Keefe)
Simon P. Keefe は、本作の永続的な魅力は、歴史的事実と後世に語り継がれた「伝説」とが不可分に結びついている点にあると論じている (Keefe 2012)。Mozart の死後数週間で Constanze 由来の発表が出回り、Franz Niemetschek の伝記 (1798) に Constanze の証言として記録され、その後さらに脚色されていった。Keefe はこれを「虚構と準虚構と事実の境界が曖昧な作曲背景への想像的な関与」と特徴づけ、西洋クラシック音楽のどの作品にも匹敵しないほどの強さで、Mozart Requiem の集合的理解を形作ってきたとする。
Keefe はまた、事実とそうでないものを完全に切り離すことは難しく、また解釈学的にも望ましくないと主張する。Mozart の自筆譜を「神話と音楽的事実が衝突する文書」と呼び、楽譜の事実と伝説の双方を組み合わせて作品を理解するべきだとする立場である。
そして Keefe が強調するのは、伝説が Mozart 一人に焦点を当てる一方で、完成した Requiem は Mozart 一人のものではないという事実だ。第二次世界大戦以降、Süssmayr は「Mozart の歯車」と見なされてきたが、Süssmayr の他の作品への学術的関心の欠如がこの偏見を示している、と Keefe は指摘する。Süssmayr の補筆こそが、Mozart の断片を完成し演奏可能な作品として世に送り出し、Requiem の批評的成功に貢献した。伝記的解釈が音楽解釈に影響を与えた結果、Süssmayr の音楽的存在は多くの批評家にとって歓迎されないものになった、という分析である。
結び
私たちがいま耳にする Mozart の《レクイエム》は、彼が生涯の最後に書き残した未完の楽譜だけでなく、Eybler と Süssmayr の補筆、Constanze からの伝聞、Niemetschek 伝記と Rochlitz の AMZ 連載、19 世紀ドイツの Kunstreligion と Verklärung の枠組み、ベッドサイドリハーサル伝説と絵画と演奏史の世俗化 ── そういった多くの層が重なりあって、現代まで届けられている作品である。
「死にゆく天才の慰めの音楽」というイメージそれ自体が間違っているわけではない。ただ、そのイメージがどの層から来ているのか ── Mozart 本人の時代のものか、楽譜の事実のものか、19 世紀の枠組みのものか ── を分けて見ることで、作品の解像度は上がる。
Sources
- Cliff Eisen, "Mozart's Leap in the Dark" (in Simon P. Keefe ed., Mozart Studies, Cambridge University Press, 2006)
- Elizabeth Kramer, "The Idea of Transfiguration in the Early German Reception of Mozart's Requiem", Current Musicology 81 (Spring 2006), pp. 73–107
- Simon P. Keefe, Mozart's Requiem: Reception, Work, Completion (Cambridge University Press, 2012)
- Clemens Kemme, "The Domine Jesu of Mozart's Requiem: Theory and Practice of its Completion", Dutch Journal of Music Theory 14/2 (2009), pp. 84–103
- Richard Maunder, Mozart's Requiem: On Preparing a New Edition (Oxford University Press, 1988)
- Peter Shaffer, Amadeus (戯曲 1979、映画版 Miloš Forman 1984)...

