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ショパンのマヨルカ島 ── 療養のはずだった冬と「雨垂れ」

ショパンのマヨルカ島 ── 療養のはずだった冬と「雨垂れ」

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マヨルカ島は今日、ヨーロッパ有数のリゾートとして知られる。地中海に浮かぶスペイン領のこの島には年間数百万人の観光客が訪れ、白い砂浜とオレンジの木陰、それに古い修道院の廃墟が絵はがき的な風景を作り出している。

フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドが冬をここで過ごしたのは1838年から1839年にかけて。建前は療養と息子の健康、本音は恋人同士が離れずに済む場所を求めての旅だったが、実態は極めて厳しいものだった。


ジョルジュ・サンドとは何者か

この記事に頻出するジョルジュ・サンド(George Sand, 1804–1876)について、初めに説明しておく。男性名のペンネームで活動したフランスの女性作家で、『愛の妖精』『魔の沼』などの作品で知られる。当時のパリ文壇における著名人であり、男装、喫煙、複数の男性との恋愛関係を公にすることで保守的な社会に挑戦した人物でもある。

ショパンとの関係については、1836年か37年頃に知り合い、1838年から事実上の恋愛関係となった。年齢はサンドが4歳年上。交際期間は1847年まで続いたが、破局の経緯は複雑で、最晩年のショパンはサンドとほぼ絶縁状態だった。

サンドにはこの旅に同行した二人の子供がいた。息子のモーリス(Maurice, 17歳)と娘のソランジュ(Solange, 14歳)である。

マヨルカ滞在後、サンドは旅行記『マヨルカの冬』(Un hiver à Majorque, 1842)を出版している。本記事が主として依拠するのはこの著作と、同時期の書簡集(Lettres de Chopin et de George Sand, 1836–1839)、および音楽評論家フレデリック・ニーチェス(Frederick Niecks)による評伝(1902)である。


楽園を思って出発した二人

旅の動機は複合的だった。サンドは息子モーリスの健康のために温暖な気候の地への旅が必要と以前から言っており、それが公式の口実となった。加えて二人は離れずに冬を過ごしたかったが、ショパンがパリの生徒や知人に説明できる口実が必要だった。ショパンの慢性的な呼吸器の問題もあり、南方の気候が好都合に見えた。行先はスペイン領事マノエル・マルラニと知人の歌手の助言でマヨルカ島に決まった。

サンドは出発前に島についての文献をいくつか読んでいた。Grasset de Saint-Sauveur(1807年)やVargas(1787年)といった旅行記で、当時の記述ではマヨルカ島民は「非常に親切」とされていた。旅を勧めたスペイン人知人も同様のことを言っていたという。しかしサンドは後に「大いに幻想を持っていた」と書いている。当時のマヨルカはパリの旅行者にとってほぼ未知の場所であり、一行は記録に残る最も初期の国際旅行者のひとつだった。

島に着いた直後、1838年11月15日にショパンが友人フォンタナに送った手紙にはこうある。

「椰子、杉、サボテン、オリーブ、オレンジ、レモン、アロエ、イチジク、ザクロに囲まれている。空はターコイズ色、海はラピスラズリ、山はエメラルド、空気は天国のよう。一日中陽光。すぐにプレリュードを送る。世界で最も美しい場所にある素晴らしい修道院に住むことになりそうだ。」

11月のパリから直接飛び込んだ地中海の秋に、彼が興奮するのは無理もない。サンドも同じように到着を記している。「1838年11月、パリの6月に匹敵する気候の中パルマに到着した」と。

数日後、11月21日付のプレイエル宛書簡でショパンはこう漏らしている。「音楽の夢は見るが、作れていない──ここにはピアノがない。その点においてこの国は野蛮だ。」

最初の躓きは宿だった。当時のパルマは観光業とは無縁の街で、一行が確保できたのは「ふたつの小さな、むしろ何もない部屋」だった(サンド)。ピアノを手配したものの、フランスから運ぶことになるため到着は先になる。


症状悪化

11月中旬から末にかけて、ショパンの症状が急速に悪化した。一行が借りた「ソン・ヴェント(Son Vent=風の家)」は壁が薄く暖炉もなく、雨期が始まると壁がスポンジのように水を吸った。室内で焚いた炭火鉢の煙が換気のできない部屋に充満し、咳がさらに悪化した。

12月3日付けのショパン→フォンタナ宛書簡には、地元の医師たちとのやり取りが記録されている。

「この2週間、犬のように病気だった。島で最も有名な3人の医師が診察した。1人目は私の痰を嗅ぎまわり、2人目はどこから吐いているか叩いて調べ、3人目は私がどのように吐くか触りながら聴診した。1人目は私がくたばりそうだと言い、2人目は私がくたばりかけていると言い、3人目は私がすでにくたばっていると言った。」

3人の医師の「診断」はいずれも一致して、彼を結核と断定した。ショパン自身はこれに納得せず、「瀉血、水疱膏、湿布から辛うじて逃れた」と続けている。同じ手紙でショパンはパリのかかりつけ医(ジャンノ=マタウシュ)への不満も漏らしている。「急性気管支炎のときにどうすればよいか、何も教えてくれなかった」と。サンドも地元医師たちの判断を信用していなかった。この診断が後に問題を引き起こす。


強制退去

当時のマヨルカ島では、結核は極めて危険な伝染病として扱われた。本土でもそうだったが、島では特にその恐怖が根強かった。診断の噂が広まるとともに、一行の立場は一変した。

家主ゴメスから手紙が届いた。サンドはその内容をこう要約している。「われわれが伝染の危険をもたらす病を持った者を住まわせており、それがゴメス氏の家族を脅かしている。」

一行は締め出された。しかしパルマには泊まれる場所もなかった。「フランス領事が奇跡的にわれわれ全員をその屋根の下に迎え入れてくれなければ、本物のボヘミアンのように洞窟で野営する羽目になるところだった」とサンドは書いている。


廃修道院

フランス領事の庇護のもとで一時を凌いだ後、一行は次の宿を確保した。パルマ近郊の山中の村ヴァルデモサにある廃修道院カルトゥハ(La Cartuja de Valldemossa)の一室を確保した。島を急遽去ることになったスペイン人亡命者の夫婦が、部屋と家具を安値で譲った。「謎めいたその夫婦が急遽島を離れることになり、部屋と家具を安値で譲り受けた」とサンドは記している。

12月15日から2月11日まで、二ヶ月近くをここで過ごすことになる。

修道院に入居直後、12月28日付のフォンタナ宛書簡でショパンは自室をこう描写している。

「岩と海の間、パリのどの馬車門よりも大きな扉を持つ、巨大な廃修道院の部屋にいる私を想像してくれ。ロールカラーもなく、白い手袋もなく、いつものように青白い顔で。棺桶のような形をした部屋には、巨大なほこりだらけのヴォールト天井、庭のオレンジ、椰子、糸杉に面した小窓。窓の向かい、ムーア様式の透かし彫りの薔薇窓の下に、折りたたみ式ベッド。ベッドの横には古い触れてはならない代物──四角いデスクのようなもので書きにくく、その上には鉛の燭台と(ここでは大変な贅沢品の)蝋燭が一本。そのデスクの上にはバッハ、私の楽譜、そして私のものではない紙類……静寂。叫べば……また静寂。」

修道院にはかつての地下牢があった。ショパンはある日そこへ降りていき、かつての囚人の苦しみを想像した途端にパニックに陥った。サンドの記述によれば「氷のようなヴォールト天井が魂の上に圧し掛かるように感じ、体が震え、胸の空気がなくなり、気を失いそうになった」と。その後ショパンが言ったと伝えられるのは「もう一瞬長くいたら、正気を失うか、激情に駆られるかしていた」という言葉だった。

夜になると、修道院のかつての使用人だった老人が酔って回廊をさまよい、杖を叩きながら叫び声をあげた(サンド『マヨルカの冬』)。病人の数少ない休息をたびたび妨げた。

村人たちの態度も友好的ではなかった。「われわれを異教徒、イスラム教徒、ユダヤ人と呼んだ。(中略)結託して法外な値段でしか魚、卵、野菜を売らなかった」とサンドは書いている。反感の原因は結核の恐怖だけではなかった。一行が教会に通わなかったこと、そしてサンドの娘ソランジュの服装が村の慣習にそぐわなかったことも、「異教徒」扱いに拍車をかけた。また「あの結核患者は地獄に行く。懺悔しないから。死んでも聖地には埋葬しない」という村人の言葉も記録されている。

宗教的理由だけでなく、実際的な敵意もあった。島民はフランスからの旅行者を見慣れておらず、ショパンの手紙にも「自然は恵み深いが、人間は泥棒だ。オレンジはただ同然だが、ズボンのボタン一つが法外な値段だ」とある。子供たちは道を歩いているだけで石を投げつけられた(サンド)。

気候については、サンドが1月15日付でマルラニへ宛てた手紙が端的に記している。「ここでは信じられないほどの雨が降る──恐ろしい洪水だ。空気は弛緩して重く、引きずるように歩くのが精一杯。本当に病気になる。」


ピアノをめぐる攻防

ショパンがフランスのピアノメーカー、プレイエル(Pleyel et Cie)から取り寄せたピアノは、12月下旬にパルマ港に到着したが、税関に引き留められた。プレイエルは創業者の息子カミーユ・プレイエル(Camille Pleyel, 1788–1855)が経営する当時パリ随一のピアノ工房で、ショパンのパリデビューを自社サロンで支援するなど、個人的にも深い関係にあった。

12月28日の手紙でショパンは苦々しく記している。「ピアノは8日間港で税関の決定を待っている。このがらくたのために金山を要求している。」

税関が要求した金額は700フラン。これはピアノ本体の価値とほぼ同額だった(サンド)。サンドによれば「15日間の交渉の末、別の門から出すことで400フランで済んだ」という。

ようやく解放されたピアノは、ヴァルデモサまでの山道を運ばれた。1月22日、ショパンはカミーユ・プレイエル宛に書いている。「ようやくプレリュードをお送りします──海と悪天候とパルマの税関にもかかわらず最良の状態で届いたあなたのピアノで完成させたものです。」

サンドの回想にはこんな一節もある。「3週間の交渉と400フランで税関職員の手から奪い取ったプレイエルのピアニノが、部屋の高く響き渡る石造りのヴォールト天井を壮大な音で満たした。」


「雨垂れ」をめぐって

1月下旬のある夜、サンドと息子のモーリスはパルマへ出かけていた。帰り道、嵐に見舞われた。「雨が山を崩し、道が激流になった。夜、足首まで川の中を山を越えて歩かなければならなかった」とサンドは書いている(1月30日付デュテイユ宛書簡)。修道院ではショパンが待っていた。その夜のことを、サンドは後に自伝『わが生涯の歴史』(Histoire de ma vie)にこう記した。

「われわれは病人の心配を思って急いでいた。彼の心配は確かに激しかったが、静かな絶望のようなものに固まっており、涙を流しながら素晴らしいプレリュードを弾いていた。われわれが入ってくると、立ち上がって大きな叫び声をあげ、うつろな目で奇妙な口調でこう言った:『ああ!君たちは死んでいると思っていた!』その夜の作曲は修道院の屋根瓦に響く雨垂れの音に満ちていたが、それは彼の想像の中で心の上に降り注ぐ天からの涙へと変容していた。」

これが「雨垂れ」伝説の出典である。一般的には前奏曲集Op.28のNo.15(変ニ長調)を指すとされるが、ニーチェスはサンドが特に言及したのはNo.6(ロ短調)だと考えている。サンドの息子モーリスの証言はNo.15説を支持している(孫娘オーロール・ロース・サンド経由)。

後にサンドがこの夜のことをショパンに話すと、彼は実は夢を見ていたと打ち明けた。ニーチェスによれば、ショパンは「夢と現実の区別がつかなくなり、自分が死んでいると思いながらピアノを弾いていた。湖で溺れる夢を見ており、氷のように冷たい水滴が一定の間隔で胸に落ちてきた」という。サンドが屋根から実際に雨垂れが落ちていることを指摘すると、ショパンはそれを聞いていなかったと否定した。

そしてこの「雨垂れの音を音楽で模倣した」という解釈そのものを、ショパンは強く拒否した。ニーチェスによれば「全力で抗議し、そのような自然音の模倣など音楽の矮小化だと言った」という。ショパンにとってあの夜の音楽は外の雨音を写したものではなく、心の中の何かが変容して生まれたものだった。

さらに問題を複雑にするのがグットマンの証言である。ショパンの弟子だったアドルフ・グットマンは、ニーチェスに対してこう語った。「プレリュードは全曲マヨルカへ出発する前にすでに作曲されていたと主張し、自身が写譜したと断言した。」

ニーチェス自身もこの見解を支持している。マヨルカでの作業は追加と改訂にとどまり、根本的な創作はパリで既に終わっていたというのが、伝記研究の現在の到達点に近い。ただしショパンの11月15日付書簡が「すぐにプレリュードを送る」と書いていながら、実際に送れたのは翌年1月22日だったことは、修道院でも相当の作業があったことを示唆している。


この時期の作品

マヨルカ滞在期間中、ショパンが手がけていた作品はプレリュードだけではない。修道院からフォンタナに宛てた手紙には、数週間以内に送る予定の曲として以下が挙げられている。

これらについてニーチェスはこう論じている。スケルツォ(Op.39)の「気難しく荒々しい性格」と、ポロネーズ「悲しみ」(Op.40 No.2、ハ短調)の「絶望的な憂鬱」は当時のショパンの心境と合致する。バラード(Op.38)にも不整合はない。一方でポロネーズ「軍隊」(Op.40 No.1、イ長調)については「もし本当にマヨルカで創作したなら、精神が肉体を凌駕した顕著な例だ」と書いている。あの状況下で、あれほど健康的で雄々しく騎士道的な曲が生まれたことへの驚きである。

さらにニーチェスは、変ロ短調ソナタ第2番 Op.35(「葬送行進曲」を含む)についても「バレアレス諸島での滞在期間に着想されたかもしれない」と記している。あくまで推測の域を出ないが、葬送行進曲の楽章はマヨルカ到着以前から存在していたとも言われる。


島を出る

2月に入っても体調は回復しなかった。「マヨルカの気候はショパンにとってますます有害になっていたので急いで出た」とサンドは書いている。

出発に際しても嫌がらせは続いた。ヴァルデモサからパルマまで3リューの荒れた山道について、馬やラバを持つ知人10人に乗り物を頼んだが誰も貸してくれなかった。やむなくバネのない貸し馬車で行くしかなく、「ショパンはパルマに着いたとき恐ろしい喀血をした」(サンド)。

船では100頭の豚と同乗した。「その臭いはショパンの回復に貢献しなかった」とサンドはさらりと書いている。

バルセロナのホテルでも問題が起きた。「バルセロナ一、スペイン一の宿屋の主人が、ショパンが寝たベッドを伝染病で汚染されたとして燃やさなければならないから金を払えと要求した」とサンドは伝えている。

修道院に残してきたプレイエルのピアノについては、ショパンに送り返す手間と費用を省くため、サンドがマヨルカで売ろうとした。しかし「結核患者が弾いたピアノを誰も引き取ろうとしなかったため、それは大変な苦労だった」(書簡集脚注)。最終的には1200フランでカヌという人物に売却された。

フランスに戻ったショパンは、プロヴァンスの乾いた空気の中で急速に回復した。サンドによれば「もう咳もほとんどせず、小さなスズメのように陽気になっている」と。


サンドの眼差し

サンドの旅行記『マヨルカの冬』は、マヨルカ島民に対して繰り返し厳しい言葉を向けている。

デュテイユ宛書簡には「この国の人間の本性は不信、非歓待、無礼、利己主義の典型だ。さらに嘘つきで、泥棒で、中世のように信心深い」とある。帰国後にはさらに「スペインが憎い!古代人のように後ろ向きに──つまりあらゆる呪いの言葉を唱えながら出てきた」と書いている。

これを読む際には時代背景を知っておくほうがいい。1838年のスペインは、第一次カルリスタ戦争(1833–1840)の最中にあった。イサベル2世の即位をめぐって王位継承争いが続いた。マヨルカ島は直接の戦場ではなかったが、戦時下の緊張は島にも及んでいたと思われる。

フランスとスペインの力関係という点では、19世紀はかつての大国スペインが後退を続けた時代だった。スペインがヨーロッパ的な意味での「強国」だったのは17世紀前半まで。18世紀以降はナポレオン戦争による疲弊、植民地の独立ラッシュが続き、1830年代のスペインは国力よりも内政の混乱で知られていた。一方のフランスは1830年の七月革命後、市民王ルイ=フィリップのもとで安定し、文化的・経済的な拡張期にあった。

つまりサンドが記したマヨルカ島民への嫌悪は、個人の感情にとどまらず、当時のフランス知識人が南欧や辺境の地に向けていた文明論的な優越感の表れであるとも言える。男装・喫煙・自由恋愛を公言し、パリの前衛的な文化圏に生きたサンドにとって、信心深く保守的な島の慣習はいっそう異質に映ったはずだ。貧しく、信心深く、医療が遅れた島を描く彼女の筆は、しばしば同情よりも軽蔑に近い。

ただしその同じ眼差しで書かれた記録が、今日われわれがこの旅を知るほぼ唯一の詳細な一次資料でもある。書簡集の編集注が指摘するように、サンドは「マヨルカ前からショパンの健康は著しく損なわれていた」と後に書いたが、これは「友人たちの目から自分の責任を軽減しようとした」誇張だと評されている。

サンドの証言がどこまで信頼できるか、ということは常に念頭に置く必要がある。と同時に、ショパンの手紙が同時代に記した内容はサンドの記述とおおむね一致しており、旅の厳しさについてはほぼ疑いがない。

療養という目的は完全に外れ、排斥され、病状は悪化し、ピアノには法外な関税がかかり、帰りの船では豚と同乗した。散々な旅の末にマルセイユへ戻ったサンドは、友人への手紙でショパンについてこう書いている。

「マヨルカで死にかけながら、楽園の香りのする音楽を作っていた。彼は自分がどの惑星に存在しているかよくわかっていない。われわれが考え、感じるような意味での生を、彼はまったく意識していない。」

常人であれば作曲どころではない状況だったはずだ。それでもショパンは音楽を書き続けた。サンドはその様子を、半ば呆れるような筆致で書き留めている。


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