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時代を震撼させたオペラ《カルメン》

時代を震撼させたオペラ《カルメン》

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重苦しく重厚な交響曲を1時間ほど聴いたあと、アンコールで《カルメン》の序曲が演奏されると、なんとも清々しく、軽やかで、心が浮き立つような気持ちになる。もちろん、直前の交響曲も素晴らしかったのだが、たった数分程度のこの曲が与えてくれるカタルシスにはすさまじいものがある。冒頭から一気に全開で入るわかりやすさと疾走感、一旦落ち着いてダンスを踊るかのような展開、安定したメロディの運び、そして、もっと聴いていたいと思う観客の想いなど全く意に介さない短さ。もちろん、本来はこの後に長いオペラが続くのだが、《カルメン》の序曲は、まさにこのオペラの性格を表しているように思えるし、それが余計に引き立つのはやはり、直前に重苦しい交響曲が演奏されたからではないだろうか。


オペラ史上最も上演されたオペラ

オペラ史上最も上演されたオペラと言われる《カルメン》は、1875年にパリ・オペラ=コミーク座で初演された、ジョルジュ・ビゼー作曲のオペラである。簡単なあらすじは以下の通りだ。

舞台は19世紀のスペイン・セビリア。衛兵の伍長であるドン・ホセは、タバコ工場で働く奔放なジプシーの女カルメンに出会い、その妖艶な魅力に溺れていく。カルメンを逃がした罪で投獄されたホセは、出所後、婚約者のミカエラや軍人としての義務をすべて捨て、彼女とともに密輸業者の一味へと身を落とす。しかし、自由を何よりも愛するカルメンの心は、次第に花形の闘牛士エスカミーリョへと移り変わっていく。激しい嫉妬と執着に狂ったホセは、復縁を迫るも拒絶され、闘牛場の外でカルメンをナイフで刺し殺してしまう。

数々のキャッチーなアリアもあり、今では入門的なオペラとして親しまれている《カルメン》だが、初演当時の評価は全く芳しくなかった。それどころか、初演後わずか3ヶ月で打ち切りとなり、作者のビゼーは批評家やメディアの苛烈な批判キャンペーンに晒され、精神的な挫折を味わう。もともと心臓を患っていたビゼーは、初演から3ヶ月後失意のうちに世を去った。しかし、ビゼーの死後、《カルメン》はウィーンでの公演を皮切りに世界的な大ヒットを記録し、不朽の名作としての地位を急速に確立していくことになる。


劇場の政治と大衆心理が生んだ初演の冷遇

ビゼーの親しい友人であり、当時の初演のプロセスを舞台裏から目撃していた劇作家ピエール・ベルトンは、1914年の回想録において、《カルメン》の初演が失敗に終わった背景には、作品の音楽的な質とは全く無関係な劇場の政治と大衆心理が絡み合っていたと告発している(Berton 1914)。

最大の要因の一つは、オペラ・コミック座の支配人であったカミーユ・デュ・ロックルの姿勢にあった。彼は作品の成功を信じず、楽屋裏で「台本はスキャンダラスで、スコアは理解不能である」と言いふらしていた(Berton 1914)。ベルトンによれば、支配人が事前に失敗を公言したことで作品に不当な疑念が投げかけられ、さらに劇場内で繰り返された彼の不用意な言葉が、台本作家たちを怒らせ、作曲家を苛立たせ、配役された歌手たちを動揺させたという。それに加えて、台本作家のメイヤックとアレヴィに対する偏見も災いした。彼らはオッフェンバックなどの軽妙なオペレッタで大成功していたため、第一夜の観客からは、「オペレッタの作り手たちが大真面目な作品を書こうとするなど、なんという不遜な企てだ。彼らにそんなことができるはずがない」と反発された(Berton 1914)。

さらに、初演日と二日目公演のねじれがビゼーを絶望へと追いやった。ベルトン自身が二日目の公演に足を運んだ際、劇場は観客の熱狂的な拍手と歓声に包まれており、すべてのシーンが理解され称賛されていた(Berton 1914)。しかし、初演によって定着してしまった「失敗作」という悪評と、新聞による虐殺とも言える酷評キャンペーンにより、一般の観客は劇場から遠ざかってしまった。この不当な評価はビゼーの精神を徹底的に打ちのめした。ベルトンと街頭で再会した際、ビゼーは沈痛な面持ちで、「ひょっとすると、彼らが正しいのかもしれない」という絶望的な言葉を残し、その3ヶ月後、芸術家としての自尊心を傷つけられ、絶望したまま世を去った(Berton 1914)。このように、ビゼーを絶望へと追い込んだ初演の冷遇は、作品そのものの芸術的欠陥によるものではなく、劇場の内部政治とメディアが先導した偏見に群衆が流された、極めて不条理な「人災」であった。


ブルジョワ社会が拒絶した「不道徳」なリアリズム

さらに、現代の音楽学者や当時の資料は、パリのブルジョワ社会に《カルメン》の生々しい現実主義と性的な表現を受け入れる準備が全くできていなかったという背景を指摘している(McClary 1994)。しかし、本作が持つ既存の支配的な道徳への反逆的な要素、すなわち規律を捨てるホセや社会秩序に縛られないカルメンの生き様こそが、19世紀後半のヨーロッパで勃興した退廃主義の文脈で熱狂的に受容され、世界的な大ヒットへとつながる原動力となった。ここでの退廃主義とは、理性や科学の進歩、道徳的な正しさを善とする社会の常識に反発し、あえてタブーとされる病的な情熱や死の予感、倒錯した官能性、そして滅びゆく美しさに最高の価値を見出そうとする芸術思想のことである。

そもそも当時のオペラ・コミック座は、良識あるブルジョワジーが家族で訪れ、お見合いや縁談をまとめる社交の場であった。そのため共同支配人のデュ・ロックルは、台本作家のアレヴィに対し、「オペラ・コミック座の舞台で人が死ぬなど前代未聞だ。ここは縁談をまとめる場所であり、毎晩その目的でボックス席が買われているのだから、そんな結末は観客を恐怖に陥れてしまう」と猛反対していた(Nowinski 1970)。また、作品が形になるにつれて、あまりの不道徳さに劇場の共同支配人の一人が辞任し、主要なプリマドンナたちも出演を拒否した(McClary 1994)。当時の批評家や伝記作家は、こうした観客の拒絶について、ブルジョワの観客が情熱に支配された労働者階級のキャラクターの生々しい姿を舞台上で見ることに、あまりに衝撃を受けたためだと分析している(Nowinski 1970)。

この拒絶反応の背景には、他者としてのジェンダー、階級、人種への恐怖もあった。カルメンは、当時の男性支配社会から排除されていた女性、労働者階級、そして非白人であるジプシーという、あらゆる他者性を備えていた。音楽学者のスーザン・マクレアリの分析によれば、当時の批評家たちがカルメンの情熱的な性描写を「子宮の狂気」と書き立てて激しく拒絶した背景には、この制御できない他者に対する恐れと抑圧があったとされる(McClary 1994)。

ビゼー自身もまた、カルメンたちジプシーの持つ快楽主義や身体性に強い魅力を感じながらも、自身の道徳的な葛藤に苦しんでいた。彼はかつて、「私は信念、心、そして魂においてはドイツ人だが、時々芸術的な娼家に迷い込んでしまう」と告白している(McClary 1994)。こうした葛藤の中で、ブルジョワ観客のショックを和らげるためのドラマ的な緩衝材として登場したのが、原作には存在しない清純なバスクの乙女ミカエラであった。これはカルメンの低い歌声に対する音楽的な対比であると同時に、観客の拒絶反応を避けるための妥協の産物でもあった(Nowinski 1970)。


主人公カルメンの生き様とニーチェの「生の肯定」

ニーチェにとって、ワーグナーからビゼーへの転向は、単なる音楽的嗜好の変遷や個人的な好悪ではなく、彼の後期哲学における「デカダンス(退廃)批判」と「生の肯定」をめぐる思想的必然であった(Klein 1925)。かつてワーグナーに心酔していたニーチェは、ワーグナーが後期楽劇(特に『パルジファル』)において、キリスト教的な自己犠牲による救済や道徳的・宗教的な重苦しさに傾倒していく姿に強い幻滅を抱いていた。ニーチェの視点では、ワーグナーの重厚でロマン主義的な音楽は、聴き手の知性を麻痺させて現実から逃避させ、病的な陶酔へと誘う「生の否定(デカダンス)」の典型であった。彼はワーグナーの音楽を「湿った毒だらけの洞窟」に例え、そこから脱出するための音楽的な解毒剤を渇望していたのである。

1881年にビゼーの《カルメン》に出会ったニーチェが、この作品を「生理的な救い」と絶賛したのは、そうした思想的文脈に基づいている。地中海の陽光を感じさせる軽やかで明晰な音楽は、単に彼の弱った身体を物理的に癒やしただけでなく、彼の哲学である「生の肯定」と深く結びついていた。ワーグナーが愛を自己犠牲による「救済の手段」として神聖化したのに対し、ビゼーは愛を「冷酷で野生的な自然の事実」、すなわち「運命としての愛(Fatum)」として描いた。死の運命を前にしても自己の自由を曲げず、刺し殺される道を選ぶカルメンの生き様は、ニーチェの理想とする「運命愛(アモール・ファティ)」の体現であった(Klein 1925)。

一方で、ニーチェによるビゼー絶賛は「宿敵ワーグナーを攻撃するためのあてつけ(冗談)」に過ぎないとする説もある。実際、彼自身が後に友人へ「ビゼーの話を本気にしてはいけない。ワーグナーへの皮肉な対比として効果的だっただけだ」と書き残した書簡の存在や、劇作家バーナード・ショーによる「ワーグナーのライバルとしてカルメンを持ち出すのは審美眼の欠如だ」といった批判がその根拠とされる。しかし、音楽学者クラインは、ニーチェ自身が対比としての皮肉を認めていた事実を受け入れつつも、それが単なる冗談やお粗末なこじつけに過ぎなかったとする極端な見方を否定する。ニーチェが発狂前の7年間にわたり、実際に20回も公演に足を運び、「ビゼーは私を生産的にする」と語り続けた事実こそが、彼のカルメンへの傾倒が心からの本気であったことの証明である。クラインは、その論説において、ワーグナーからビゼーへの転向は個人的な怨恨による単なるポーズではなく、彼の後期哲学と生理的な欲求に深く根ざした必然の選択であったと結論づけている(Klein 1925)。


普仏戦争とパリ・コミューンの影

近年の研究では《カルメン》の政治性や時代背景に関する論証も進んでいる。先に紹介したマクレアリの研究を土台にしつつ、デルフィーヌ・モルディは《カルメン》と1871年のパリ・コミューン——短期間ながら重大な意味を持った労働者蜂起であり、市の大部分の破壊と、共和派軍隊の手による数千人ものコミュナール(パリ・コミューンに参加した市民・労働者・国民衛兵の総称。後に反コミューン派からは「放火犯」「暴徒」を意味する蔑称としても用いられ、特に女性参加者〈communarde〉は淫らで暴力的な存在として悪魔化された)の死をもたらした事件——との関連を論じている(Mordey 2016)。

パリ・コミューンの発端は、その前年に勃発した普仏戦争にある。プロイセン宰相ビスマルクは、南ドイツ諸邦を北ドイツ連邦に統合してドイツ統一を完成させるための求心力として、共通の「外敵」となるフランスを利用しナショナリズムを高揚させようとした。スペイン王位継承問題をめぐる外交的緊張のなかで仕掛けられた「エムス電報事件」——両国王・大使間のやり取りを伝える電文を意図的に編集して公表する策略——は、まさにそうした文脈での挑発であり、両国の世論を一気に開戦へと傾けた。この罠に乗せられる形でフランスは宣戦布告に踏み切った。だが軍備でも戦略でも劣るフランスは屈辱的な敗北を喫し、スダンの戦いでナポレオン3世自身が捕虜となって第二帝政は崩壊した。抗戦継続を選んだパリはプロイセン軍に包囲され、ペットや動物園の動物までもが食料とされる極限状態に陥った。

1871年1月、ヴェルサイユに退いた共和派の暫定政府がプロイセンと休戦を結び、アルザス・ロレーヌ割譲と50億フランの賠償金という屈辱的条件を受け入れたことに、徹底抗戦を望んでいたパリ市民は強く反発した。さらに新たに選出された国民議会が王党派優勢の保守的な構成となり、家賃モラトリアム廃止など民衆生活を圧迫する政策を打ち出したことで、対立は決定的となった。1871年3月、パリ市民は自国政府たるヴェルサイユ政府に対して蜂起し、自治政府パリ・コミューンを樹立した。だがこの労働者蜂起はわずか2ヶ月余りで同じフランスの政府軍によって苛烈に鎮圧され、「血の週間(La Semaine sanglante)」では数千人ものコミュナールが虐殺され、その後3万2千人以上が起訴された。

ビゼーが《カルメン》の作曲に取り組んだのは、まさにこの惨劇の記憶が冷めやらぬ時期であった。1870年代を通じて政府の方針は「コミューンなど起こらなかったかのように振る舞うこと」であり、劇場でも虐殺、反乱、火災を想起させるあらゆる場面が検閲対象となった。モルディは2016年の論文「Carmen, Communarde」において、《カルメン》がコミューンへの明示的言及が禁じられていた時代の「秘められた記憶の場(lieu de mémoire)」として機能していたと論じている。作者と観客が共有していたトラウマ的経験を、暗号のような共通コードで呼び起こす場となっていたのである(Mordey 2016, p. 216)。

モルディはそのコードを複数指摘する。第一に、第1幕の舞台設定そのものである。戒厳令下の都市を想起させる兵士の群れや、男性的とされた喫煙を行う女工たちの姿は、伝統的ジェンダー役割を踏みにじったコミュナール女性のイメージと重なる。第二に、カルメンの赤いスカートである。通常はエロティシズムや血の象徴と解されるこの色は、何よりも革命の色であり、コミュナールたちは赤い帯やスカーフで互いを識別していた。第三に、ハバネラの歌詞に繰り返される「ボヘーム(Bohème)」である。マクレアリが指摘するように、この語はジプシーと、前衛芸術家・政治的不穏分子の温床となった下層階級サブカルチャーの双方を指していた(Mordey 2016)。

興味深いのは、ビゼー自身がこの問題に深い両義性を抱えていたことである。彼はボヘミアン的自由を愛する芸術家でありながら、同時にコミューンを「放火犯、盗賊、人食い人種の一団」と非難するブルジョワ共和派でもあった。モルディによれば、《カルメン》は——ボヘミアン的自由の誘惑に屈するブルジョワ兵士の物語として——コミューンとその理想に対する敵意と共感を和解させようとする試みとして読むことができる(Mordey 2016)。

初演の批評家たちが《カルメン》に浴びせた苛烈な批判キャンペーンの語彙——売春婦、動物、卑劣な悍婦(virago)、悪魔——が、反コミューン派がコミュナール女性の攻撃に用いた女性嫌悪的なレキシコンと驚くほど一致していることも偶然ではない。市に火を放ったとされる神話的存在「ペトロルーズ(pétroleuses, 石油焚き女)」として悪魔化されたコミュナール女性たちが体現した暴力と性的魅惑の混合は、パリのブルジョワ層にとって深い恐怖の対象であった(Mordey 2016)。

現代の我々にしてみれば、ただ純粋に美しい名作として《カルメン》を楽しんでいるかもしれない。しかし、ワーグナーの音楽に見られる、人々を現実から逃避させるような欺瞞を嫌悪したニーチェが、カルメンの残酷で非道徳的とも言えるほどに清々しい現実主義(リアリズム)に惹かれた事実は、きわめて示唆的である。これは、パリ・コミューンという惨劇を「なかったこと」として扱い、必死にブルジョワ的な社会秩序を守り通そうとした当時のパリの保守的な聴衆が、初演時に本作を激しく拒絶した反応とも深くシンクロしている。都合の悪い現実を覆う欺瞞のベールを剥ぎ取り、生々しい真実をただ提示するカルメンの姿こそが、哲学と社会の双方において、当時の人々を震撼させた真の理由だったのかもしれない。


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