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ベートーヴェン交響曲第7番第2楽章は、いつ「悲しい音楽」になったのか

ベートーヴェン交響曲第7番第2楽章は、いつ「悲しい音楽」になったのか

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1813年12月8日、ウィーン大学の大ホール。ハーナウの戦いで負傷したオーストリアとバイエルンの兵士を支援する慈善演奏会で、ベートーヴェンの交響曲第7番イ長調 作品92が初演された。企画したのは、メトロノームの考案で知られるヨハン・ネポムク・メルツェル。ライプツィヒの戦いでナポレオンが決定的な敗北を喫した直後という時局のなか、演奏会は圧倒的な成功を収め、4日後の12月12日には早くも再演が組まれた。

なかでも突出していたのが、第2楽章──イ短調のアレグレットへの熱狂である。聴衆はその場でアンコールを要求し、以後の演奏会でも「いつものように」繰り返しを求め続けた。1814年、ライプツィヒの『一般音楽新聞』(Allgemeine musikalische Zeitung)はこの楽章を「現代器楽の王冠」と呼んだ。交響曲全体には「奇行と不協和音」(1824年の批評)と眉をひそめる声もあったなかで、第2楽章の人気だけは揺るがなかった。

ここまでは、よく知られた話である。ただ、この初期の批評をよく読むと、妙なことに気づく。

初演を絶賛した『一般音楽新聞』は、こう書いているのだ──「アンダンテ(イ短調)はダ・カーポで呼び戻され、専門家と愛好家の双方を魅了した」。1814年1月2日の演奏会評も「魅惑的なアンダンテ」、同年2月27日の再演評も「アンダンテ(イ短調)、現代器楽の王冠」。挙げ句、同年11月の『フリーデンスブレッター』紙に至っては「イ短調の気楽なアダージョ」とまで書いた (van der Zanden 2025)。

ベートーヴェンが楽譜に書いたのは、「アレグレット」である。

アレグレットは「やや快活に」。アンダンテよりも、ましてアダージョよりも、明確に速い。1817年にベートーヴェン自身が発表したメトロノーム指定は四分音符=76──歩くというより、流れる速さだ。ところがこの楽章は、それから200年にわたり、多くの演奏会で、荘重な、ほとんど葬送行進曲のようなテンポで演奏されてきた。ピアニストのチャールズ・ローゼンは20世紀末にこう要約している──「多くの指揮者は、より重く、より思わせぶりなテンポを好む」。

誤解のないように急いで付け加えると、初演の演奏そのものが遅かったわけではない、らしい。これらの演奏会を指揮していたのはベートーヴェン本人であり、初演のオーケストラで弾いていたルイ・シュポーア(後述)は、そのテンポを四分音符=72──指定の76とほぼ同じ──と記憶している。実は当時、「アンダンテ」という語にはテンポ指定とは別の顔があった。「交響曲の2番目の、比較的落ち着いた楽章」を指す日常語としての用法である(『一般音楽新聞』は《英雄》についても「アンダンテの代わりに葬送行進曲が置かれている」と書いている)。つまり批評家たちが書き留めたのは、テンポの報告ではなく、楽章の「呼び名」だった (van der Zanden 2025)。

問題は、この呼び名が独り歩きを始めたことである。「アンダンテ」というラベルが先に定着し、やがてそれが実際のテンポを──そして楽章の意味そのものを──引きずり下ろしていく。ベートーヴェンが書かなかった「アンダンテ」は、誰が書いたのか。本記事では、この楽章の受容史を包括的に辿った近年の研究 (van der Zanden 2025) を主な導き手に、一つの楽章が「悲しい音楽」に作り変えられていく200年を見ていきたい。


リズムでできた楽章

まず、音楽そのものを確認しておく。

この楽章の主役は、旋律ではない。冒頭、管楽器が鳴らす不安定な和音が幕のように開くと、低弦が刻み始めるのは「ター・タタ・ター・ター」という音型──「長・短短・長・長」の繰り返しで、音の高さはほとんど動かない。旋律と呼ぶには単純すぎる、足踏みのようなパターンである。この足取りが楽章の最初から最後までを貫き、その上に対旋律が絡みついていく。

実はこの「長・短短」「長・長」は、古代ギリシャの詩の韻律(ダクテュルスとスポンデー)と同じ型で、音楽学者メイナード・ソロモンは、この交響曲全体にベートーヴェンによる「古代の韻律」の意識的な復興を読み取っている (Solomon 2003)。リヒャルト・ワーグナーがこの交響曲を「舞踏の聖化」と呼んだのも、根っこは同じところにある。旋律ではなくリズムこそが、この音楽の主人公なのだ。

主題の出自にも、意外な事実がある。19世紀の資料研究家グスタフ・ノッテボームがスケッチ帳から発見したところによれば、この主題はもともと1806年、弦楽四重奏曲 作品59-3のために書き留められたものだった (van der Zanden 2025)。5年以上も引き出しに眠っていた素材が、交響曲のなかでヨーロッパ随一の人気者になったわけである。

そして重要なのは、スケッチにも自筆譜にも、テンポをめぐる迷いの跡がないこと。自筆譜の「Allegretto」の筆跡に、書き直しの形跡はない (van der Zanden 2025)。


人気の暴走──第2楽章がひとり歩きする

1816年末に楽譜が出版されると、第2楽章の人気は交響曲という枠を飛び出していく。ピアノ独奏用、連弾用、弦楽五重奏用──編曲が次々と出版され、この楽章だけが単独で演奏会に登場するようになった。

その人気に便乗したのが、ウィーンの老作曲家ヨーゼフ・ゲリネクである。流行歌の変奏曲で知られたゲリネクは、この楽章を主題にした変奏曲を出版した。1816年12月16日の『ウィーン新聞』に載った広告の題名を見てほしい──「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの新しい大交響曲イ長調による、崇高なイ短調のアンダンテのためのピアノフォルテ変奏曲」(van der Zanden 2025)。

「アレグレット」を正しく知っているはずの同業者が、「アンダンテ」と銘打って商品を売る。しかもこの広告を出した出版社シュタイナーは、当の交響曲を出版したばかりの版元だった。van der Zanden (2025) は、気楽に聴ける「崇高なアンダンテ」のほうが売り文句として都合がよかったのだろう、と見ている。

パリでは、もっと大胆なことが起きていた。のちにパリ音楽院演奏協会を創設する指揮者フランソワ=アントワーヌ・アブネックは、1821年、交響曲第2番を演奏する際に、その緩徐楽章を第7番のアレグレットに差し替えてしまう (van der Zanden 2025)。この「編集」された演奏で育ったのが、若き日のエクトル・ベルリオーズだった。ベルリオーズにとって第7番は「そのアダージョで名高い作品」であり、この楽章は「痛ましいため息」に始まる「奇跡のエレジー」、「涙の谷」であり、その底知れぬ悲しみは旧約聖書の「エレミヤの哀歌」に比すべきものだった。後年のベルリオーズは「アダージョ」を「アンダンテ」に格上げするが、嘆きと祈りの音楽という聴き方は生涯変わらなかった。

さらに、思わぬ方向から連想の上書きが進む。1823年、シューベルトが《さすらい人幻想曲》を出版した。そのアダージョ楽章の主題は、歌曲「さすらい人」からの自己引用だが、そこに脈打つのはアレグレットと同じ「長・短短」のリズム──シューベルトはこの音型を、静止したピアニッシモのなかで、死と暗黒を象徴する身振りとして使ったのである。この人気曲の印象が、ベートーヴェンの楽章の聴かれ方にも影を落としていった可能性を van der Zanden (2025) は指摘している。二つの作品には、もともと何の関係もないのだが。

こうして1820年代には、「イ短調のアンダンテ(あるいはアダージョ)」──遅く、悲しく、どこか宗教的な音楽というイメージが、楽譜の指示とは無関係に定着しつつあった。

しかし、決定打はまだ先である。それをもたらしたのは、ベートーヴェンの最も身近にいた人物だった。


シンドラーの「敬虔なアンダンテ」

アントン・シンドラー。ベートーヴェン晩年の秘書役を務め、死後は最初の本格的な伝記を著し、そして楽聖の遺した「会話帳」──筆談用のノート──を我が物とした人物である。

シンドラーは1831年、ベートーヴェンの音楽の背後には「詩的な理念」があるというキャンペーンを開始する。彼によれば、第7番の第1楽章は「運命との戦いに勝利する道徳的英雄」の物語であり、続く第2楽章はこうなる──

いまや悲しみに沈む魂は神の御前にひれ伏し、アンダンテ・クワジ・アレグレットにおいて祈りを捧げる。それはヴァイオリンとチェロによって、比類なく美しく表現されている

── シンドラー、1831年 (van der Zanden 2025 経由)

お気づきだろうか。シンドラーはここで、テンポ表記そのものを「アンダンテ・クワジ・アレグレット」に書き換えている。彼の主張によれば、ベートーヴェンは晩年、この楽章があまりに速く演奏されるのに心を痛め、表記を改めてメトロノームも四分音符=80に変更するつもりだった──その証拠は「私が所有するノートに記録されている」と。

シンドラーはこの楽章を「敬虔なアンダンテ」(religiöse Andante)と呼んだ。イ長調の中間部は「闇夜の星」であり、来世と不滅への信仰の目覚めであり、楽章の終わり近く、管と弦がフレーズを分かち合う場面では、天上の声がこう囁いているのだ、と──「汝に平安あれ、いまは安らかに、安らかに」(Friede sey mit euch)。

1840年のアーヘン音楽祭で、この確信は事件を起こす。第7番を指揮したのは、大指揮者ルイ・シュポーア。そのテンポが速すぎると感じたシンドラーは、終演後にシュポーアに詰め寄り、口論は雑誌沙汰になった。誌上でシンドラーは、シュポーアの第2楽章が「終盤にはもはや完全なアレグロに流れ込んでいた」と難じる。対するシュポーアの反撃は、痛烈だった。自分は1813年、この交響曲の初演でベートーヴェン自身の指揮のもとオーケストラの中で弾いていた。記憶しているアレグレットのテンポは四分音符=72であり、揺れも不安定さもなかった──と (van der Zanden 2025)。

初演の現場にいた音楽家の記憶は、ベートーヴェン自身のメトロノーム指定(=76)とほぼ一致していた。しかしシンドラーは退かない。1845年、伝記の改訂版で彼は「動かぬ証拠」を提出する。1823年のものだという、会話帳への書き込みである──「つまり、アンダンテ 四分音符=80、もはや『クワジ・アレグレット』ではなく」「私にとってこのアンダンテは、神聖にして神々しきものの究極の理想です」。

これらの書き込みが、シンドラー自身がベートーヴェンの死後、おそらく1840年から45年の間に会話帳へ偽造記入したものだと判明するのは、およそ100年後のこと (van der Zanden 2025)。20世紀後半の会話帳研究によってシンドラーによる大量の偽記入が特定されるまで、「ベートーヴェンは晩年この楽章をアンダンテに改めようとしていた」という物語は、本人の言葉として信じられ続けた。1896年にはあのジョージ・グローヴまでもが、シンドラーを引き継いで「ベートーヴェンはこの楽章が速く演奏されすぎることを何より案じていた」と書いている (Grove 1896)。

偽造は、テンポを変えるためだけのものではなかった。それは楽章の「意味」を確定させるための偽造だった。祈り、敬虔、天上の平安──シンドラーの「敬虔なアンダンテ」は、彼が死後に管理した楽聖の像そのものだったのである。


この楽章は「何の音楽」なのか──解釈の乱立

シンドラーだけが夢想家だったわけではない。彼が活動を始めた1820〜30年代のドイツ語圏では、器楽は単なる「音の戯れ」ではなく、何らかの物語や理念を宿しているはずだ、という考え方が批評の主流になりつつあった (van der Zanden 2025)。ベートーヴェン本人が自作の「意味」をほとんど語らなかったこともあり、批評家たちは競うようにこの楽章へ物語を与えていく。そしてどの物語も、音楽を遅く、重くする方向に働いた。

たとえば理論家アードルフ・ベルンハルト・マルクス(1824)が聴いたのは「崇高な葬列」だった。捕虜となった兵士たちが街路を引かれていき、その嘆願が勝者の心を動かす──行進のリズムを「疲れた足取り」と読んだ解釈である。一方、1825年の『ツェツィーリア』誌に載った解釈では、同じ音楽が正反対の場面になる。これは村の結婚式であり、チェロの主題は新郎新婦への感動的な祝辞なのだ、と。この結婚式説を1835年に引き継いだのが、25歳のローベルト・シューマンである。彼は誌面で、蝋燭を持つ聖歌隊の少年たち、祭壇の司祭、「永遠を決定づける『はい』」を毅然と告げる花嫁を夢見た。当時のシューマンはクララ・ヴィークとの結婚を彼女の父に阻まれていた──音楽に自分の願望を重ねた、あまりに私的な読みだったことになる (van der Zanden 2025)。

葬列と結婚式。正反対の物語が同じ音楽から読み取られたという事実は、これらが音楽の説明というより、聴き手の自画像だったことを物語っている。

ワーグナーは「教会の行列」といった解釈を嘲笑したが、代わりに自身の比喩を差し出した。執拗に歩み続けるリズムは樫の巨木であり、そこに絡みつく哀切な対旋律は蔦である──地を這うしかなかった蔦が、幹を得てはじめて形を得る、と (van der Zanden 2025 経由)。これも詩的な読みには違いないが、ワーグナーが(彼にしては)正確に聴き取っていた点は注目に値する。この楽章の主役が「歩み」そのものだ、という点である。

そしてフランスでは、解釈が言葉の世界を越えて、演奏の現場を変えていた。この楽章は追悼式典で事実上のレクイエムとして使われるようになり、作曲家アントニーン・レイハ(1836)、画家イッポリート・フランドラン(1864)、そしてベルリオーズ自身(1869)の追悼式で演奏された (van der Zanden 2025)。1893年のパリのある演奏会プログラムには、こんな解説まで付されている。

死者の魂が墓を離れる。彼らは囁き、その悲痛な声は身廊へ進むにつれて次第にはっきりと聞こえてくる。葬列を続けながら、彼らは立ち上り、高い回廊へと広がっていく。ゆっくりと、生命が彼らに戻ってくる

── 1893年のパリの演奏会プログラム (van der Zanden 2025 経由)

死者の魂が墓から蘇る音楽。こうした物語で聴かれる以上、テンポは沈むほかない。「アレグレット=やや快活に」の居場所は、もうどこにもなかった。


復権、そして今も残る「悲しみ」

20世紀、流れに逆らった最初の大物はアルトゥーロ・トスカニーニだった。1930年代、彼は楽譜どおりのアレグレットでこの楽章を演奏するが、時代の耳には受け入れられない。潮目が変わるのは1980年代以降、ピリオド演奏の運動が19世紀の「伝統」を洗い直してからである (van der Zanden 2025)。今日では、ベートーヴェンのメトロノーム指定に近いテンポの演奏も珍しくなくなった。

それでも、コンサートの主流では依然として重いテンポが好まれ、研究文献ですらこの楽章を「死と墓場の連想を担う」音楽として語り続けている (van der Zanden 2025)。映画も同じだ。『英国王のスピーチ』(2010)のクライマックスでこの楽章が流れるとき、私たちが聴いているのは、19世紀が作り上げた「崇高で悲痛なアンダンテ」の直系の子孫である。

では、正しい聴き方はアレグレットで、悲しみは全部間違いなのだろうか。

そう単純でもない。冒頭で見たとおり、「アンダンテ」という呼び名はベートーヴェン自身の指揮する演奏会から始まった。ほかならぬベートーヴェン本人ですら、1816年に出版社シュタイナーへ楽譜の訂正を指示した手紙のなかで、この楽章を「アンダンテのなかの」と呼んでいる──日常語の「アンダンテ」がいかに自然な言葉だったかを示す証拠である (van der Zanden 2025)。イ短調の翳り、執拗な歩み、絡みつく対旋律──悲しみに聴こえる要素は、最初から音楽のなかにあった。だからこそ聴衆は初日にアンコールを求めたのだ。

ただし、その悲しみを「敬虔な祈り」に固定し、テンポを引き倒し、偽の証言でそれを楽聖の遺志に仕立てたのは、ベートーヴェンではない。シンドラーであり、19世紀という時代だった。

いま耳にする演奏の「悲しさ」がどの層から来ているのか──1812年の楽譜からか、それとも19世紀が塗り重ねた解釈からか。それを分けて聴けるようになると、この楽章の解像度は上がる。四分音符=76の「歩み」を知ったうえで聴くと、立ち止まって嘆く音楽ではなく、悲しみを抱えたまま歩き続ける音楽が聴こえてくるはずである。


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