単純で印象的なメロディーが繰り返されながら徐々に盛り上がっていく。同様の構造を全体として使った曲として有名なのはモーリス=ラヴェルのボレロだが、ショスタコーヴィチの交響曲7番の第1楽章のいわゆる「侵略のテーマ」も負けず劣らず有名である。この曲は発表以来数多くの解釈と評価が行われてきた。

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## 侵略のテーマ

親しみやすくて覚えやすい、短い旋律が機械的に繰り返され、軍隊行進曲調にスネアドラムが背景を刻む。反復のたびに楽器が積み重ねられ、音量も段階的に増していく。

ボレロとの構造的な類似は、ショスタコーヴィチ自身も自覚的であった。1941年8月、新たに書きあげた第1楽章をグリクマンに弾いて聴かせた後、彼はこう語ったとされる。

> この曲がどうなるかわからない。怠惰な批評家たちはきっと、ボレロを模倣していると私を非難するだろう。それでいい ── これが私には戦争の音に聞こえる。
>
> — ショスタコーヴィチ、1941年8月、Glikman 経由 (Taruskin 1997, p.486)

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## レニングラード包囲戦。反ナチズムとしての受容

ショスタコーヴィチ交響曲第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」は、第2次大戦中のヒトラー政権によるソ連侵攻と、より具体的にはレニングラード包囲戦の最中に完成した4楽章構成の交響曲である。

1941年、独ソ不可侵条約を破って、ソ連侵攻を開始したヒトラー政権は、ソ連第二の都市であり、主要な工業都市であるレニングラード（現在のサンクトペテルブルク）を落とすことを企図する。装甲車輌を中心とした軍団は破竹の勢いで進撃し、あっという間にレニングラード近辺に達するが、ソ連の分厚い防衛線と、都市戦による消耗を警戒し、ドイツは包囲による持久戦を選択した。

1941年9月頃から始まった包囲と、都市内部への激しい砲撃により、レニングラードの食糧はあっという間につき、12月頃には本格的な飢餓状態に陥る。激しい砲撃の最中、レニングラード北部のラドガ湖（冬は凍結し行き来が可能になった）を通じた補給や、小規模ながら空輸による物資供給も行われたが、焼石に水であり、実に100万人近い市民が飢餓で無くなったという。

ショスタコーヴィチは開戦初期は、レニングラードにいた。次第に激しさを増すドイツ軍からの攻撃の最中、自身もボランティアの消防係として活動していたが、当局によりモスクワ、その後は戦時中の臨時首都となったクイビシェフ (現サマラ）に疎開させられる。「公式の物語」としては戦火の最中、ショスタコーヴィチがドイツ軍への怒りと、祖国を奮い立たせる思いで曲を書いたとされるが、第1楽章の素材自体はそれ以前から構想されていたとする伝記的研究もある。実際に曲が完成したのは、疎開先サマラ (クイビシェフ) であった。

演奏時間は約75-80分。第1楽章「戦争」、第2楽章スケルツォ「思い出」、第3楽章「祖国の広い空間」、第4楽章「勝利」と各楽章に副題が付けられていたが、ショスタコーヴィチ自身が後に副題の削除を望んだとする説もある。

1942年3月にクイビシェフで初演され、ファシズムに対抗するソ連の不屈の精神の象徴として全国にラジオ中継され、ソ連国家による大々的なプロパガンダとして利用された。同年8月にはレニングラード包囲下の現地でも演奏されている。

ソ連国外における受容も、自然発生的なものというよりは、戦時宣伝の必要のなかで意図的にセッティングされた側面が強い。タルースキンによれば、ショスタコーヴィチの自筆スコアはマイクロフィルム化され、「テヘラン、カイロ、ブエノスアイレスを経由する連合国軍用機」でニューヨークに空輸され、1942年7月19日、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮のもと「戦時ヒステリーに近い熱狂のなか」全米ラジオ放送初演された (Taruskin 1997)。聴衆は数百万、ハリウッドのストラヴィンスキー夫妻もこの放送を自宅で聴いたと夫人の日記に残っている。トスカニーニは米国初演権をストコフスキーと争い、ストコフスキー宛ての手紙のなかで「私はその美しさと反ファシスト的意味に深く心を打たれた。… 親愛なるストコフスキー、イタリアの古老指揮者 (=トスカニーニ自身、ファシズムに対して闘った最初の芸術家の一人) が、若きロシア人「反ナチス作曲家」の作品を演奏する ── これは誰にとっても、そして君自身にとっても、興味深いことではないか」と訴えていた。1942年7月20日のTIME誌は、古代の兜を模した消防ヘルメットを被り、戦火をバックにしたショスタコーヴィチの肖像を表紙として掲載している。

つまり第7番は、ソ連と英米の連合国の双方から ── ソ連では「ファシズムに抗するソ連人民の不屈」として、連合国では「反ナチス・反ファシズムの音響的象徴」として ── ほぼ同時並行に、受容の土台が政治的に整えられたうえで世界に流通した。

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## 冷戦と雪解け。スターリン体制への密かな批判としての受容

第7番は公的にはドイツ侵攻への抵抗音楽として喧伝されたが、戦後、特に冷戦期から1990年代以降にかけて、別種の読み ──「侵略のテーマ」はナチスだけでなく、あるいはナチス以上に、スターリン体制そのものへの皮肉として読みうる ── が繰り返し提示されてきた。タルースキンが整理する通り、こうした読みは現在では国際的にも、またソ連崩壊後のロシア国内でも、ショスタコーヴィチ解釈の主流の一つの位置を占めていると言ってよい (Taruskin 1997)。

ショスタコーヴィチの作風的背景として、戦前に前衛的な作品でスターリンの怒りに触れ、身内が次々と粛清される中、リハーサル中であった「交響曲第4番」を自ら封印した経緯はよく知られている。その後の「交響曲第5番」は体制側にも大絶賛され名誉を挽回したが、後年の研究者はその二重性を指摘し、フィナーレの長調による「勝利」を、「強制された歓喜の戯画」として読み直すようになった。ヴァイオリンが執拗に同一音を反復する様を、エスティ・シェインベルクは「脳に打ち付けられる釘のようだ」と書く (Sheinberg 1998)。表面的には当局が望む語法を使いながら、その語法の内側に「もう一つの意味」を埋め込む技法 ──「二重声」あるいは「寓話の言葉 (Aesopian language)」── が、ショスタコーヴィチの中期以降の作曲を貫く戦術として論じられている。

第7番についても同じ枠組みで読もうとする論者は多い。ショスタコーヴィチ本人の発言として伝えられるものに、親友イサーク・グリクマン宛ての書簡における次の一節がある。第1楽章の展開部と「ファシスト侵攻を表す主題」を演奏して聴かせた後、

> これら退屈な批評家たち ── 私がヒトラーへの憎しみだけに駆り立てられて作曲したと結論づける者たち ── は山ほどいる。
>
> — ショスタコーヴィチ、Glikman 編『Story of a Friendship』(2001)

と語ったとされる。「ファシスト侵攻」を音楽化したが、その「ファシズム」はヒトラーのナチス・ドイツに限定されない、という示唆として読まれることが多い。エスティ・シェインベルクは『ショスタコーヴィチの音楽におけるアイロニー、サタイア、パロディ、そしてグロテスク』(1998) で、ショスタコーヴィチ本人と息子マキシムの証言を引きながら、侵略のテーマの風刺は両体制 ── ナチズムとスターリニズム ── の「愚かな秩序」全般に及ぶと論じている (Sheinberg 1998)。

さらに直接的な発言として、クイビシェフでの隣人だったフローラ・ヤシノフスカヤが当時記録した未刊行ノートに、ショスタコーヴィチの次の言葉が記されているとされる (ソ連の音楽理論家レオ・マゼールがこれを公開し、タルースキンが引用)。

> ファシズムは単にナチズムではない。これは恐怖、奴隷化、精神的疲弊についての音楽だ。第7番 (そして第5番) はファシズムについてだけでなく、我々のシステムについて、あらゆる専制または全体主義一般についての音楽だ。
>
> — ショスタコーヴィチ、Mazel 経由 Yasinovskaya の未刊行ノート (Taruskin 1997 経由)

「~についてだけでなく」「~一般について」という言い回しに注目するならば、これはナチスを除外しているのではなく、ナチズムを含めた、より広い対象 ── スターリン体制を含む全体主義一般 ── へと意味を開いている、と読める。

ただし、こうしたスターリン批判説の有力な根拠の一つに、出版直後から信憑性が疑問視されてきた Volkov『Testimony』(1979) 経由の証言が含まれていることには注意が必要である。たとえば Volkov の本のなかには、「私は『レニングラード』第7番を非常に急いで書いた。… 戦争の最初の日からピアノに座って書き始めた」(ショスタコーヴィチの 1939年記事の逐語コピーであると Fay が指摘) という記述と、その 1ページ後の「第7番は戦争の前に計画されていたのでヒトラーの攻撃への反応ではない。『侵略のテーマ』はヒトラーとは関係なく、別の人類の敵 (= 後に Volkov はこれをスターリンと等置する) を考えていた」という記述が、同じ章のなかで矛盾したまま並んで存在する (Fay 1980)。後者の発言は Volkov 以降の「反スターリン的擬態」読解の中心的な根拠の一つとなったが、その出所そのものが内部矛盾を抱えていることは、踏まえておく必要がある。

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## 単一の解釈を超えて

ここまでの議論を踏まえると、第7番第1楽章の「侵略のテーマ」は、ナチス・ドイツへの単純な怒りの表明ではなく、ナチズムとスターリニズム双方の「愚かな秩序」を音楽化したアイロニックな構造を持つ、という読みが浮かび上がってくる。シェインベルクの分析、ショスタコーヴィチ本人とマキシムの証言、ムラヴィンスキーの言葉、いずれもこの方向を支える。

しかし、ナチスへの批判もスターリンへの批判も、結局は「この曲は誰を風刺しているか」という同じ問いの中での選択肢にすぎない。この問いの内側に留まる限り、第7番の意味は「風刺としての音楽」という一つの方向に閉じてしまう。

そもそも、作曲家本人の意図を巡る証言には注意がいる。「ショスタコーヴィチは内心ではスターリン体制への怒りを抱きながら、表面上の体制服従の下にそれを忍ばせていた」という反骨像は、その多くを Volkov『Testimony』(1979) 以降の物語に依存している。Volkov の信憑性については先に述べた通りであり、また、スターリン死後の雪解け期から冷戦末期にかけて、時代の雰囲気に合わせて作曲家を「密かな反体制者」として後から語り直す欲求があったことも、受容史的に確認されている (Taruskin 1997)。本人の意図が完全に反骨であったと確定的に書くことはできないし、逆に完全に体制迎合であったと書くこともできない ── どちらも、後世の物語による構築の余地を排除できない。

一方で、作品の周辺には、解釈とは独立に確認できる事実がある。

第一に、この曲が書かれた時期と場所である。ショスタコーヴィチがこの曲を書いていた1941年9月から12月、レニングラードは ── 彼が生まれ、音楽教育を受け、最初の交響曲を初演し、青年期から壮年期までを過ごした都市は ── ドイツ軍の包囲下にあった。市内では食糧と燃料が尽き、零下30度の冬の中で人々が街頭で倒れていった。最終的に約100万人近い市民が餓死・凍死で命を落としたとされる、20世紀ヨーロッパ史で最も悲惨な包囲戦の一つである。レニングラードはショスタコーヴィチにとってだけでなく、ロシアのクラシック音楽史にとっても特別な場所である ── ペテルブルク音楽院、マリインスキー劇場、チャイコフスキーの主要作品の初演地、グリンカ以降のロシア音楽が近代的形を獲得した場所。これらの状況が彼の作曲に影響を与えたと確定的に言うことはできない。しかし、これらを完全に視野の外に置いたうえで、この曲を「皮肉な構造を持つ風刺音楽」とだけ要約することも、またできない。

第二に、この曲が当時実際に受容された内容である。1942年3月のクイビシェフ初演以降、ソ連国内では「ファシズムに抗するソ連人民の不屈」の象徴として、連合国では「反ナチス・反ファシズムの音響的象徴」として、第7番は同時並行に流通した。特に1942年8月9日、レニングラードの包囲下、飢餓と砲撃のただ中で行われたカール・エリアスベルク指揮の現地初演は、市内のスピーカーとドイツ軍陣地に向けた拡声器の両方から流された。生き残った市民の証言は、この演奏が「我々はまだここにいる」という生の証明として受け取られたことを伝えている。これも、作曲家の内的意図がどうであれ、起こったことそのものである。

リチャード・タルースキンは『Defining Russia Musically』(1997) で、Volkov や MacDonald による「第7番は実は反スターリン的擬態である」という読みを「痛々しい」と評する。完全に反スターリン的読解を貫くには、実際の戦闘のイメージ、侵攻エピソードの嫌悪感、最終的な勝利を無視する必要があるからだ。彼の中心的な主張は、第7番の意味を単一の言い換えに還元してはならない、というところにある。ソ連プロパガンダの「反ファシスト英雄音楽」も、Volkov/MacDonald 経由の「反スターリン的擬態」も、彼に言わせればどちらも同じ種類の還元的読解である。

ショスタコーヴィチ自身も、こうした文字通りの解釈を嫌っていた。批評家たちが「ある交響曲ではオーボエとクラリネットがソビエト官僚を表し、金管が赤軍兵士を表している」式に作品を物語に変換していくのを見て「叫びたくなった」と語った、というショスタコーヴィチの言葉が紹介されている (Taruskin 1997, p.542)。彼は作品の「潜在的内容 (latent content)」を潜在的なまま、流動的なまま (labile) 保つことに固執した作曲家だった。作品が単一の言い換えに還元されることを、作曲家自身が拒んでいた。

英米におけるショスタコーヴィチ受容、特にイギリスでの新聞批評の歴史を包括的に整理したポーリーン・フェアクラフの研究も、同じ方向を指している。フェアクラフによれば、英米のショスタコーヴィチ像は「Volkov 以前の旧 (=忠実な共産党員)」と「Volkov 以降の新 (=隠れた反体制者)」という二期に分割されて語られるようになったが、この分割自体は1990年代の「ショスタコーヴィチ論争」── 近代音楽学において類を見ない攻撃的な論争 ── のなかで構築されたものである。彼女の対象とした英国の受容史を細かく追えば、戦前の純粋音楽批評の時代、戦時のプロパガンダ的受容、戦後の忘却、冷戦期のブームと「アイロニー派」の台頭、それに対抗する「伝統主義派」(誠実な共産主義者として読む立場) の系譜まで、受容のかたちは時代のイデオロギーと深く結びついて変化してきた。さらに、受容を規定したのは政治イデオロギーだけではない。同時代の音楽美学的な対立 ── 前衛モダニズムと、それに違和感を持つ伝統的な聴衆・批評家との対立 ── も大きな要素であった。ショスタコーヴィチの音楽語法が相対的に保守的で、急進的に革新的ではなかったことは、戦後の英国楽壇で彼を「前衛の自己満足的実験」への対抗軸として読む流れを生み、伝統主義派による彼の擁護を支えた。フェアクラフは結論として、1960-70年代の批評家たちのうち、ショスタコーヴィチを誠実な愛国者・共産主義者と見なすことに困難を感じず、しかしそれでもなお彼の音楽のなかに政治的風刺の音調を聴き取っていた者たちこそが、風刺を否定した者にも後に風刺を主張した者にも勝って真実に近かったかもしれない、と述べる。彼らはショスタコーヴィチの音楽とソ連社会における彼の役割の両方の「二面性 (doubleness)」を認めていた、ただそれだけの理由で。1990年代の二極化された論争が燃え尽きて、より繊細でニュアンスのあるアプローチに置き換わりつつあるいま、再びこの「二面性」が議論されはじめている、というのが彼女の結論である (Fairclough 2007)。

「ショスタコーヴィチ論争」は、過去のものではない。1990年代に最も激しくなったこの論争は、2000年代に入っても継続している (Fairclough 2007)。「皮肉なのか、英雄賛歌なのか」「反ナチスなのか、反スターリンなのか」── こうした単純化された図式の代わりに必要なのは、これらの読みを互いに排除せず保持する柔軟性である。そのうえで、確定的な「正解」がない以上、聴き手それぞれが、想像しながら聴くこと。それも、おそらく許されている。

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*Cover image: Photo by Boris Kudoyarov (1941) / Via Wikimedia Commons*

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## Sources

- Esti Sheinberg, *Irony, Satire, Parody and the Grotesque in the Music of D. D. Shostakovich* (Ashgate, 2000) — 元 PhD 学位論文 (Edinburgh, 1998)
- Richard Taruskin, *Defining Russia Musically: Historical and Hermeneutical Essays* (Princeton University Press, 1997)
- Isaak Glikman 編, *Story of a Friendship: The Letters of Dmitri Shostakovich to Isaak Glikman, 1941-1975* (Cornell University Press, 2001)
- Laurel Fay, "Shostakovich versus Volkov: Whose Testimony?" *Russian Review* 39/4 (1980), pp. 484-493
- Pauline Fairclough, "The 'Old Shostakovich': Reception in the British Press," *Music & Letters* 88/2 (May 2007), pp. 266-296
- Solomon Volkov, *Testimony: The Memoirs of Dmitri Shostakovich* (Harper & Row, 1979) — 信憑性論争のある二次的資料として
- Ian MacDonald, *The New Shostakovich* (Northeastern University Press, 1990) — Taruskin / Sheinberg が批判的に引用